0円教育物語⑦ 勝つも負けるも全部自分。自分以外は関係ないよ。

31人生の勝ち組とは
 勉強を「人生の勝ち組になるため」の心意気で頑張ろうとする方々も、一定数いらっしゃるだろうと思われる。僕の経験上、基本的に勉強は「競争」である。「その問題が分かるのか分からないのか」、「そのテストで何点を取ったのか」、「どちらが高い点数であったのか」、「どこの高校に受かったのか」、「どこの大学に進学したのか」、このような「競争」が繰り広げられる。
 勉強によって、競争が行われるのは、悪いことではない。もしかしたら、「そんな競争」があるからこそ、勉強を頑張ろうとするのかもしれず、もしかしたら、そのおかげで人類の学力が一定の水準に保たれている可能性だって考えられる。一概に、「勉強は競争ではない」というのは、やや、綺麗事のように、僕には思える。勉強競争は「悪いこと」ではない。
 「人生の勝ち組になる」というのは、どういった意味をするのだろう。おそらく、「人生」というのは一度しかないので、その「一度の人生」をできるだけ豊かに、できるだけ楽しく、できるだけ幸せを感じるようにしたいという思いから生まれる、「大きな憧れ」のようなものではないだろうか。そして、「できるだけ豊かそうで、できるだけ楽しそうで、できるだけ幸せそうな人」がいわゆる「勝ち組」とされ、その反対が「負け組」なのだろう。「誰かに勝つ」というよりは、「不幸そうになりたくない」意識が、「勝ち組になりたい」というものではないだろうか。
 「人生の勝ち組になりたい」という思いは、「勝っている人」と「負けている人」の具体的なイメージがあってこそ成立する。「勝ち組」というぐらいであるから、それは「グループ」なのだろう。きっと、何らかの憧れをもとに、「こういう人は勝ち」で、「こういう人は負け」というイメージがあり、「こういう人は勝ち」の条件を自分なりに獲得していこうとするのではないかと、思われる。そして、「勉強」も「そのなかの一つの要素」として、「勝ち組になるために必要なもの」という認識がされたとき、「勝ち組になるための競争」が始まるのだろう。「勉強で勝つ」こと以外に考えられることとして、「有名な会社に入る」とか、「お給料のいい仕事につく」とか、「プロのアスリートになる」とか「歌を歌う人になる」とかが考えられるだろうか。
 仮に、「勝ち組」になれたとして、「何に勝ったのか」を考えてみると、「負け組になったかもしれない自分」に勝ったと言えるだろう。「勝ち組になった人」は、隣にいる「負け組に見える人」に対して、ある種の優越感を感じるのかもしれないが、それは「自分がそうならなくてはよかった」という思い、つまり「そうなっていた可能性も十分にあった自分」への「勝利」が、「自分は勝ち組だ」と感じられる人の喜びだろう。勉強で考えるなら、たとえば、「自分もその学校に入れなかった可能性」を感じるからこそ、「合格」は「不合格」に対して「勝利」となるだろう。「うまくいった状態」で、「うまくいかなかったかもしれなかった自分」と「うまくいかなかった人」を重ね合わせて、「そうならなくてよかった」と、そこで感じる優越感が「勝ち組」の味なのではないだろうか。そして「その味」を感じることが「勝ち組になる」ということだろう。
 ただ、僕にはよく分からない、というのが本音である。僕は、これまで「勝ち組になる」という概念も、「負け組になる」という概念も、あまり作用したことはない。そもそも僕の人生なんか、「誰かに勝つもの」では到底ないからではあるのだろうが、そして「負けまくっている」ものなのだろうが、「勝ち組になりたい」とも、「負け組になりたくない」とも、もちろんその逆もあまり感じたことはない。
 僕にとって「勝ち組」があるとするなら、それは「楽しいと感じられること」である。「楽しいな」と思えることが僕にとっては豊かな証であり、楽しさの証であり、幸せを感じる源である。「自分」が人生を楽しめるのなら、「誰か」より楽しい必要なんか、まったくない。「勝ち組になる」とは「自分が楽しいと感じられること」、「負け組になる」とは「自分が楽しくないと感じること」である。それを「勝ち組」と呼べるのか、「負け組」と呼べるのか、僕には分からない。なぜなら、「僕次第」の「僕だけ」のことであるからである。それは「組」としてくくるものなのか、少々の疑問である。
 いずれにせよ、自分の人生が「勝ち組」に所属しようとも、「負け組」に所属しようとも、「自分」である。そこに「他人より」という概念が、果たして必要なのだろうか。「他人より幸せかどうか」、「他人より楽しいかどうか」、「他人より豊かかどうか」など、何によって測られるのだろうか。非常に難しことではないかと、想像される。私は楽しい、あなたも楽しい、ただそれだけではないだろうか、と僕には思える。
 もし、「誰かより」豊かであり、楽しくあり、幸せであることを求める状態があるとすれば、それは「自分の感情だけでは処理できないもの」であるはずである。自分の感情だけでは処理できないために、「自分以外の基準」が必要になる。だが、「楽しい」や「幸せ」といった感情は、「自分が」感じるものである。自分が楽しいと感じるから「楽しい」という感情に出会い、自分が幸せだと感じるから「幸せ」という感情に出会う。そういうものである。「私は楽しいですか?」と、隣にいる誰かに聞いてみると、その意味がよく分かると思われる。文構造に違和感を覚えるはずである。おそらく、問われた隣にいる方は「わかりません」というだろう。到達し得たとして、「私からみると、どうやら楽しそうですよ」が限界である。もちろん、誰かに「私は幸せですか?」と問いてみてもいいだろう。
 つまり、もし「勝ち組」が僕の想像通り、「一度きりの人生をできるだけ豊かに、できるだけ楽しく、できるだけ幸せに!」を目指し、それを手にすることならば、「他人に勝つこと」など、どうでもいいはずである。「プロ野球選手になる」とか「アーティストになる」といった、そもそも競争が大前提の領域への興味が強く、自らその世界を好む人は別にしても、「競争に勝つこと」が「幸せ」ではない。むしろ「競争をしないこと」の方が、よっぽど豊かで、楽しそうで、幸せそうに、僕は感じる。「競争に勝った人」が美化されて登場するから「競争に勝つこと」が正義と錯覚し得るが、「競争を勝つまでの過程」を考えると、競争なんかしないほうが健康的である。「競争自体が好き」という変わった方々は、多少の例外であろう。「あなた」が豊かになるためには、あなたが豊かだと感じることをし、「あなた」が楽しくなるためには、あなたが楽しいと感じることをし、「あなた」が幸せになるためには、あなたが幸せに思えることをすればいいのではないか、と僕には思えてならない。果たしてそれは「競争」なのか、それを「競争」と呼ぶのか、僕にはわかりかねる。「幸せそうに見える人」に近づこうとする行為は、「自分」から離れていく行為である。ただ、「幸せになる」とは「自分の感情」である。

32「勝つ自分」vs「負ける自分」
 もしかしたら「勝ち組になる」ためには「勝つこと」など全く必要ないのではないかとさえ、思える。「勝ち組」が「豊かに、楽しく、幸せに」を求めるものであればあるほど、「勝つ」必要なんかない。それでもなお、「勝ったこと」を証明したいのであれば、おそらくそれは「負け組」である。すでに大敗に大敗を重ねているように思われる。ここにおける「勝ち」は「その証明」などいらないものである。「証明」が必要な時点で、豊かだとは思えていない証であり、楽しいと感じられていない証であり、幸せとは思えていない証である。楽しければ、「楽しい」と証明する必要はない。「私は楽しい」で完結する。
 そのように考えると、「勝ち組になりたい」という発想は「負け組」に生まれるものではないだろうか。「本当に何かにおいて勝つこと」が目的であればあるほど、よっぽど競争好きの性分の持ち主か、「今負け組だ」という認識を持っている人であろう。「何かによって証明する」ことは、「証明しないと認識できない」ことである可能性が高いと思われる。「勝ち組」であることの証明は「負け組だから」必要になる。もっとも、僕は「勝ち組」についても「負け組」についてもあまり分かってはいない。
 ただ「自分の理想に近づく」過程において、「こうなったらいいな」、「ああなったらいいな」という発想は、誰もが持つものではないかと、思われる。当然、「こうはなりたくないな」とか「ああなりたくはないな」とかいうことも含まれる。この関係を「勝ち」と「負け」で表現するのなら、「こうなったらいいな」をできるだけ再現することが「勝ち」であり、「こうはなりたくないな」に近づけば近づくほどに「負け」と言えるだろう。それが「勝ち」で「負け」なのかは分からないが、そのような解釈は容易にできる。夢を実現することや、目標を達成することが「嬉しいこと」であるなら、夢を実現できなかったり、目標を達成することができなかったりすると、それは「嬉しくないこと」であるだろう。
 もし、その「いかに自分の理想に近づくか」が「勝ち」と「負け」を左右するものであるならば、それは極めて「自分ごと」である。勝とうが自分、負けようが自分、それに向かうも自分、それに向かわないも自分、の「自分ごと」である。そこには一定の「自由」がある。「勝つ自分に近づく自分」と「負ける自分に近づく自分」の戦いである。自分以外の誰も、作り出すことができず、自分以外に「その勝敗」をジャッジできない戦いと言える。少なくとも僕は、「あなた」の理想を知らない。きっとあなたも、「僕」の理想は知らないはずである。
 もし「それ」を、つまり「いかに自分の理想に近づけたか否か」を「勝ち組」、「負け組」と表現するのなら、その勝ち負けに「他人」が入るスペースなどない、と言える。その人が勝手に始めて、勝手に楽しんで、勝手に喜び、勝手に悔しがるものである。ここにおける「競争」は、「勝つ自分」vs「負ける自分」と言えるだろう。
 ここで「勉強」に帰ってこようと思う。「勉強」はまさに、「自分の理想に近づこうとする行為」である。自分がこれをできるようになりたいと思ったことを、できるようにしようとする時間であり、それができるようになれば、つまり「自分の理想」に近づけば、それは楽しいものになるだろうし、ある種の「勝利の味」を感じることだろう。もちろん、「自分が自分に対して感じる勝利の味」である。
 ただ、そんな「勉強」を、「他人に勝つため」にやるとなると、どうであろう。僕には少々違和感を覚える。それはもしかしたら「自分との戦い」が熱を帯に帯びた結果、「他人」をも巻き込む勢いを生み出しているのかもしれないが、それよりも「他人より上に立つことの優越感」を得るためではないか、と思われる。「自分ごと」としてではなく、「他人よりも勝っていること」を証明するための「勉強」である。もっとも、「他人よりも勝っていない時」に「その証明」は必要になる。そしてこれは「私は楽しいでしょ?」とやや意味不明な問いを、誰かに投げかけ、「その答え」を「誰かに委ねる」行為である。「私が楽しいのかどうか」を「誰かに委ねる行為」と言える。つまり「私は優れているでしょ?」と他人に問いかけたい衝動によるものであろう。
 「そのような勉強」に憧れを抱かれる方は、ぜひ楽しんでいただければ、幸いである。「勉強のやり方」に、ノウハウなどない。「好きに」やっていいものである。多少、他人に迷惑をかけるかもしれないと想像されるが、それも含めて、「自由」である。
 ただ、僕は「勉強」は「他人よりも優れていることを証明する道具」だとは考えていない。「他人よりも優れていることを証明する」ためにやるのなら、おそらく「他人よりも優れているかどうかを示すもの」になるのだろうが、「そのような勉強」こそが、「やったところで何になるのか」という疑問を伴うものになるのだろうと、思われる。そして、たしかに、「やった」ところで、何にもならないのである。
 勉強とはもう少し、「自分より」なものである。もう少し、「自分のなか」で戦うものである。そして「そこ」にひとつの「競争」があると、僕は思う。そしてそれは、「他人に証明」などする必要のない、「自分の理想に近づこうとする」競争である。

33「もったいない勉強」は「もったいない結果」をもたらす
 「勉強」における競争は、「理想に近づく自分」と「理想に近づかない自分」の戦いである。「自分の理想に近づく勉強」ができていない人ほど、「他人に勝つ」ことがモットーとなる。「楽しい」と感じられない人ほど、「楽しいことを証明しないと」やっていけないものである。「楽しい」とは、その人に始まり、その人に終わるものである。それを「誰か」に委ねる「必要」が生まれるとき、それは「楽しくない」状態ではないかと、思われる。「楽しいか楽しくないか」は「確認をすること」ではない。感情のままの、「ただの感情」である。「勉強」も「自分に始まり、自分に終わる」ものである。ただ、「自分がこうなりたい」と思う方向に進んでいけばいいだけのものに過ぎないのである。
 そもそも、「勉強で誰かに勝つこと」は偉大なことでもなんでもない。ある人間が「たまたま」勉強における能力に優れていて、ある人間は「たまたま」その能力が高くはなかった、というだけでも決してしまう勝負である。もしかしたら、それを「才能」と呼ぶのかもしれない。だが「能力の有無」でいうのなら、「鳥が空を飛べること」は人間にとってどれほどの作用を及ぼしているだろう。「たまたま優れていること」と「たまたまもちえなかったもの」という点で、非常に似ている。鳥は人間と比べて、「空を飛べる」という「その一つの能力だけ」を抽出して「才能がある」と表現され、人間は鳥と比べて「才能がない」のだろうか。おそらく、「そんなこと」を考える人は僅かであろう。いや、きっといないはずである。反対に、「人間界のテストを受けられない能力」を、たまたまもって生まれた「鳥」からすると、「勉強競争」なんて、全く理解できないものではないか、と思われる。
 「自分」に向かうはずの「あなたの勉強」が、「自分以外」のところに向かってしまう勉強のことを、「もったいない勉強」と呼ぶこととする。「もったいない勉強」は非常にもったいない。
 というのも、「高学歴なのに」という言葉を耳にすることがある。たとえば、「あの人は高学歴なのに、仕事ができない」とか、「自分は高学歴なのに、なんで昇進しないんだ」とかいったものである。そしてこれらは、決して「珍しい視点」ではない。意外と「それ」をプライドとして、自慢げに掲げている人も少なくなさそうである。自らのアイデンティティとしての「学歴」である。
 それ自体が悪いのかというと、もちろんそんなことはない。「自分はたくさん食べられる」というアイデンティティや、「ご飯を美味しく作ることができる」というアイデンティティ、それと同じように「自分は勉強ができた」というアイデンティティだって悪くない。
 ただ、ここにおける「もったいなさ」は、「勉強はできるのに」という、「勉強ができることが生きていない点」である。「勉強ができること」が生きていない時に、周りの人の見解としても、自分のプライドの保全の手段としても、「勉強はしてきたのに」という発想が生まれ得る。「果たして本当に勉強ができたのか?」と自分も、自分以外の人も問いたくなるときに、「あの人は高学歴なのに」や「自分は高学歴だぞ」という思考が両者の間に生まれ得る。残念ながら、「それ」を主張したくなっているときは「それ」が生きていないときではないかと、思われる。つまり「証明できていない」ときに「その証明」が必要になる、状態である。
 「他人に勝つ」ことが目的となった勉強、「他人に示す」ことが目的になった勉強は、そんなジレンマを抱える。というのも、「勉強」が「自分の理想に近づく行為」であるならば、「今の地点」でも「続けること」ができ、「テスト」や「受験」が用意されなくなった「今」も、それを「態度」として生かしていけるはずが、「他人に示す手段がなくなってしまっては行き場を失う勉強」は、もったいないことに、「消化物」なのである。消化してしまったら、「ないも同然」である。「ないも同然」になった地点においても、「他人示そうとする」態度ばかりが残って、しまいには「自らの学歴の示し方」がわからなくなって、プライドばかりが高くなっていってしまうと、考えられる。そんな「空っぽの勉強」は、「もったいない勉強」は、実にもったいない。
 「他人に示すこと」が必要になるときは、「他人に示すことができていないとき」である。ただ、「勉強」に関しては「他人に示す」必要などない。「勉強」とは、繰り返しになるが、もっともっと、「自分ごと」である。「自分ごと」だから、「あなたのため」になるのである。「誰かのため」の勉強は、ただのおせっかいである。

34 勝つのも自分、負けるのも自分
 僕は、「勉強における勝ち負け」があるとするなら、「どちらも自分」だと感じている。なぜなら「勉強」とは「自分ごと」であり、勉強をするのは「自分のため」であり、勉強をしないのも「自分」だからである。その「自分ごと」が完結しているときにようやく、「他人と比べる」ことが始まるのだろうが、「他人と比べる」こと自体は「付録品」のようなものといえる。「自分のこと」は完結してしまって、もうすることがなくなったときに、「他人と比べる」ことが楽しくなる、程度である。「他人と比べるため」に「自分のこと」があるのではなく、「自分のため」に「自分のこと」があるのである。
 そのように考えると、「私は勉強ができない」という文章にも多少の違和感が生まれる。「僕の勉強」は「僕のできないこと」から始まり、「あなたの勉強」は「あなたのできないこと」から始まるにもかかわらず、「私は勉強ができない」とは、やや不自然である。「できない」からこそ「やること」が生まれるのである。「できないこと」がなくなったときにはじめて「勉強をする」必要がなくなるのであり、もちろん「そのような境地」に達する、まして「学んでいる段階」でそのような地点に到達し得る人など、なかなか考えにくい。勉強で「誰かに勝つこと」の必要性もよく分からないが、「誰かに負けることの問題点」もよくわからない。「自分にはできないことに出会った」ことを「誰かに負けた」と表現するのなら、それは「勉強する機会を新たに手にした」というだけではないか、と思える。終始「自分ごと」として解釈してしまえば、そもそも「勉強における勝利」も「勉強における敗北」も、いったいぜんたい、なんのことを指しているのかさえ、理解し難いものとなる。「勉強における勝ち負け」が「あなたと誰か」の間に成立するとき、「あなた」はどこへ向かっているのだろうか、僕は非常に興味がある。
 つまり、「勝ち組」を「豊かになり、楽しくなり、幸せを感じる人」であるとするなら、「勝ち組になるための勉強」は、「勝ち組」から最も遠ざかっていく行為と言える。もし仮に、その瞬間においては「勝ち組になれた」と思えたとしても、「勝ち組になれた」ことを「何か」によって確認しようとしている時点で、おそらく、豊かだとは思えず、楽しくもなく、幸せを感じることができていないことの裏返しであり、それはつまり「勝ち組」から離れていこうとする行為と言える。あなたの感情である「楽しさ」や「幸せさ」は「あなた」が感じていればいいもので、「勝ち組になれば」感じられるものではない。「勝ち組になれれば」とは「負け組」の発想である。それでいうなら、僕は「負け組」である。
 そもそも一体、「勝ち組」とはなんであろうか。「負け組」とはなんであろうか。どうやら自ら判定することは、難しそうである。「他人に勝つための勉強」とはどのようなもので、「他人に負けた勉強」とはどのようなものだろうか。
 勉強は、「私ができないこと」から始まる、それだけではないだろうか。勉強は「私ができないこと」を解決しようとする時間、違うだろうか。「それが解決できたとき」に一種の喜びを感じ、「それを解決できないとき」に一種のもどかしさを感じる、それは「他人と競うこと」なのだろうか。

35 何で点数をとったのか
 僕が想像をするに、「テストの点数」が、勉強社会における「勝者」と「敗者」を決するものではないかと、思われる。テストの点数が高ければ高いほど、「勝者」であろうし、点数が低ければ低いほど、「敗者」なのかもしれない。たしかに「希望の進路」を手にするための手段の一つとして「試験」が用意されていて、「その点数」によって、合格や不合格を決めるシステムはできあがっている。「それ」をもとにして、「それ」をクリア出来るのか否かが「勝者」と「敗者」の認識を生んでいるのかもしれない。
 では、「テスト」は「何」を測定している場なのであろうか。「その人の頭の良さ」なのだろうか。
 例えば、「3ケタ➗2ケタの割り算」が苦手なA君がいたとする。A君は「その分野」のテストを「苦手なまま」受けたら、100点中「10点」だとする。この「10点」は「A君がどれほど得意で、どれほど苦手か」を表している、と言える。つまり「能力値」と言えるかもしれない。「苦手なもの」を「苦手なまま」数値化したものである。
 ではA君が「苦手だ」ということを理解して、それを克服するための日課をつくったとする。次のテストまでの2週間、「学校に行く前に5問やる」という日課をつくったとする。A君は「割り算」に関しては苦手でも、「苦手なことはたくさん練習すればいい」ということは分かっていて、その「練習の場」をつくったとする。
 その練習の成果もあって、2週間後のテストでは100点中「35点」に伸びたとする。まだまだ「得意だ」と胸を張って言えるほどではないものの、A君からすると「大成長」である。伸びた点数は「25点」である。
 この「25点」は「何による」ものだろうか。A君は2週間で「25点分、頭がよくなった」のだろうか。「割り算の能力」が奇跡的に上がったのだろうか。もしかしたら「その可能性」もないとは言えない。
 ただA君はこの2週間の間に「テストに向かうプロセス」を変えている。「苦手なまま」テストに向かうのではなく、「毎朝5問をやり続け」て、テストに向かうようになっている。ということは、この「新たにつくったプロセス」が点数をアップさせた、とも言えそうである。「割り算の能力」ではなく「練習の時間」が点数を高めてくれたとも、言えそうである。ここにA君の能力があるとすれば、「苦手なものを苦手なままにせず、それを克服するための練習をすると決めて、それをしっかりと行う」能力である。「算数の割り算」の能力を測定しているようで、実は「算数以外の能力」が測定されている、とも言えなくもない。
 つまり、何が言いたいのかというと、「同じテスト」であっても「測る能力は様々である」ということ。決して「ひとつの能力」だけが測られているわけではない、ということ。「割り算のテスト」は「割り算の能力」だけが求められているのではない、ということ。A君はまだ「割り算ができる子」まではいっていないかもしれないが、「A君の学力」は進化している。A君よりも高い点数を取った子がいたとしても、「A君が進化したこと」は変わらないものである。ここで一概に「A君より点数が高かった子が勝ち」と言えるだろうか。それはおそらく、「どちらが背が高いのか」のようなものである。少なくともA君は「自分の高め方」を、この機会に学んだはずである。「できないこととの向き合い方」を学んだはずである。「測る能力」が様々であるにも関わらず、「点数が高いこと」だけを「勝利」と認識してしまうことの「尚早感」を分かっていただけただろうか。
 「割り算のテスト」では「割り算」だけがテストされているのでは、残念ながら、ない。「あなたの能力をもとに、どのようにしてそのテストに向かうのか」という「あなたの態度」もテストされているのである。そしてこれは、あくまでも「も」で接続されるものなので、当然「それだけ」でもない。それらを踏まえても、点数だけが「勝者」と「敗者」を決定するのだろうか。「たまたま65点を取れちゃった子」と「練習を経て35点にした子」との「勝負」は成立するのだろうか。もし成立してしまうのなら、あまりに「ルール」がなさすぎる勝負ではないか、と思われる。

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