0円教育物語⑱ 「勉強にはお金がかかる」という幻想。

86「0円教育」は「勉強にはお金がかかる」という幻想に向かっている
 「0円教育」は「お金をかけて勉強すること」と対峙するものではない。「お金をかけて勉強ができる」ということも素晴らしいことである。その選択をする人がいること、またその環境を提供する方々がいることに何ら問題はない。「必要であるから」そこにお金を絡めてのビジネスが成立するのであろうと、思われる。
 「0円教育」の向かう先は「勉強にはお金がかかる」という幻想である。幻想に向かっている。おそらく「それ」は幻想ではない。「幻想ではない」と思われるほどの幻想である。何だかまどろっこしいが、「勉強にはお金がかかる」という現実と、「勉強にはお金をかけるしかない」という意識が重なって生まれる「幻想」である。「どちらか一方」によって成り立っているものではないように、僕は感じている。
 この「幻想」を放置しておくと、それはどこまでも行き続けるだろう。勉強にはお金がかかり続ける、だろう。勉強にお金がかけられる現実と、勉強にはお金がかかるという幻想が重なり合って、それが放置され続ければ、勉強にはお金がかかり続けるだろうと思われる。僕は「このままではまずい」と感じてしまう。それこそ「生まれた環境のお金の量」がものをいうようになる。「勉強」は「買うもの」になる。それでは、なんとも「勉強」の筋からは逸脱する。「勉強は買うもの」であり続けると、おそらく「経済」の面からもあまりよろしくない。僕は「経済」についてはよく知らないが、「お金をかけないと勉強ができない」となれば、経済の循環はおそらく今以上に悪くなるだろうと想像している。詳しくは述べないでおく。あまり「詳しいこと」もない。
 僕は「その幻想」に刺激を入れようと試みている。それが「0円教育」である。「0円勉強」である。もう一度言っておくが、「勉強にお金をかけること」はまったく悪いことではない。
 「目に見えているもの」に反応しすぎている、とも言えそうである。そこに塾がある、行くと勉強ができるようになるらしい、それはいくらか、というように。「目に見えるもの」にだけ反応していると、「目に見えるもの」に従うしかなくなる。それがおそらく「社会への恨み」の根源にもなるのだろうが、「勉強にお金がかかる」のはもちろん社会の責任ではない。ある側面から見ると、たしかに社会にも何らかの責任があるのかもしれないが、ある側面から見ると、目に見える現実の言いなりになりすぎている部分もある。その積み重ねによって「勉強はお金がかかるもの」になり、「恵まれない経済環境にいる子どもたち」が困りえる空間を作り出す。もし、「学力格差と経済格差」に問題が隠れているとしたら、そんなことも考えられる。わたしたちが自ら「そういう状況」を作っているのかもしれないのである。
 もし「勉強にはお金がかかる」という現実がたしかにあったとしても、それに抵抗する。思考によって抵抗する。何か別の方法によって「そうでないもの」を作り出せるのではないかと、抵抗する。そのための、つまり「抵抗のため」の「0円教育」である。「0円勉強」である。「お金をかけないと勉強は教えてもらえない」とは、幻想であることを「現実」として示すための手段である。そしてそれを「目にしたとき」に、それが「幻想である」ことを、「誰か」は認識できる。何事も「目に見える形」にしてみるとよくわかるのである。「目に見える形にすればいい」のならば、問題はそんなに難しくない。
 僕が向かう先は「お金がかかる勉強」ではなく、「勉強にはお金がかかる」という「幻想」である。その幻想を「幻想だ」と発見させるためのものである。無意識に受け入れてしまっているところを有意識にするためのものである。「ちょっと立ち止まってみる」ためのものである。ちょっと立ち止まってみると、「解決しないだろうこと」も一気に解決に向かうのである。「勉強にお金がかかること」は決して「仕方のないこと」ではない。

87僕は今、「勉強」のさなかにある
 僕は今、「勉強」のさなかにいる。大学を卒業して、形上の「勉強」を終えた今、なお「勉強のさなか」にいる。僕には「わからないこと」が実に多い。わからないことだらけである。
 「わからないこと」と対峙することは、僕にとって「勉強」である。それが「数学」ではなくとも、「英語」ではなくとも、テストが課されなくとも、「わからないこと」はすべて「勉強」である。その意味で、僕は「勉強のさなか」にいる。
 きょうえい塾をはじめてまだ間もないものの、「はじまった」という余韻に浸りながら、「6名の生徒が来てくれている」という感動にも浸りつつ、何かしら「次」に進み続けなくてはならないことへの恐怖を時折感じながら、次の行動を考えることを繰り返している。ただ「こうしたい」というプランに従って、どのように実現させていくのかを考え、それに向かっていくことのワクワク感は、何とも言えない。この感情を総合すると、おそらく「楽しい」ということになる。「勉強」の機会は非常に楽しいのだ。
 「わからないこと」に出会ったときに、どのように「分かるようになるか」はまさに「勉強」の過程である。「こうすればこうなる!」という確信など一切なく、それでも「こうするとこうなるのではないか?」という仮説を立てて、何かしら取り組んでみて、問題解決に向かう。「勉強」には「不確定要素」が必ず存在するのである。つまり、「勉強」は「これをやったら、絶対にできるようになる」というものではない。その不確定要素のなかを冒険してみる時間が「勉強」なのだと、僕は思っている。「絶対にできること」や「できるとわかっていること」を繰り返し訓練するのは、おそらく「勉強」ではない。「わからないこと」と対峙してこそ、「勉強」だろう。
 今、僕には「科目」は与えられていない。ただ「科目」が与えられて受験の必要を迫られたときと、特段「やっていること」は変わらない。むしろ「同じ」である。大人になると、基本的には「科目」は与えられなくなる。ただそれは「大人になったら勉強の必要がなくなったから」ではなく、「勉強がより抽象的なものになるから」であろうと、思われる。大人になると「勉強」が見えづらくなる。もしそれに名前をつけるのであれば「仕事」になるのだろうが、僕は「勉強」と「仕事」の違いもよくわからないままに大人になってしまったので、「大人になって仕事がはじまった」という感覚はない。子どもの頃からの「勉強」を延長させて、それを応用させるようになっただけのように感じている。「勉強と関わっている」こと以上に、「仕事」も「勉強」も同じではないか、と感じている。社会人になると「仕事が始まる」というけれど、それは「お金をもらい始める」ことの言いかえであろう。「お金をもらうこと」が「仕事」の本質ではない。これは「偏差値を上げること」が「勉強」の本質ではないことと、同義である。つまり、「仕事」とは「勉強」なのである。「自分のできないこと」を「勉強」を通して向き合っていく過程と同様に、「仕事」をすればいい。「新社会人」はおそらく「できないことだらけ」である。僕は「新社会人」と呼べれる存在ではおそらくないが、それでも「何か」をはじめてみると、「わからないこと」だらけである。そうやって「勉強」は「続いていく」のである。
 僕は「生きていく」ということへの興味が強い。すべてのことを「生きる」のなかに包括しようとしすぎるあまり、小さな単位の境目がまったくわからない。結果として、僕は「勉強」は「仕事」を要求される年齢になった今も続いてしまっている。「子ども」と「大人」の違いもよくわかっていない。ほとんどの人は「その違い」をよく知っているはずである。僕は知らない。ならば「勉強」が必要である。「大人と子どもの違いは何か」という勉強である。今のところの仮説は「違いなどないのではないか」というものである。「それ」に基づいて、「勉強」をしていこうと考えている。
 僕は「お金持ちになる」ということにまったく興味をもっていない。生きていくのに必要なお金を稼がないといけないことぐらいは承知の上で、「お金持ちになる」ということの興味はない。ただ、「0円教育圏づくり」は「仕事」のつもりでやっている。いや、これは「仕事」である。「それでお金を稼げるのかどうか」などどうでもよく、「お金がもらえないから」という理由でそれが「仕事」ではないとの認識もない。「勉強」と「仕事」の違いも、「子ども」と「大人」の違いもよくわかっていない僕ではあるが、「0円教育」は「仕事」だと思っている。「わからないことに向かってみる」という点で、「仕事」だと感じている。

88「勉強」は永遠なり
 「勉強」はどこかで終わるものではない。少なくとも「終わらせよう」としない限りは続いていくのである。そしてそれはときに「勉強」とは呼ばれないこともある。ただ「勉強」は存在している。「勉強」と呼ばなくなっても「勉強」が続いていくことが、「勉強」の本質ではないだろうか。「勉強をした時間」が「生かされる」のは、その地点ではないだろうか。「勉強」とはプロセスであり、「プロセス」は自ら作り出すものである。
 どうしたらいいかわからないことに出会う。どうしたらいいかわからないことは、その分「進み」が悪くなり、ストレスを生む。ただそのストレスは「立ち止まれ!」の合図ではなく、思考と行動が要求されているだけであり、「ではどうするか」を自ら考える機会なのである。「進みが悪くなること」は「進むため」にあり、「立ち止まれ!」と解釈しない限り、永遠に進んでいく。子どもの期間に「このストレス」を経験することも、ひとつ「勉強」の意義になりえるだろうし、「そのストレス」をどのように凌いでいくのかを「勉強」によって練習ができるのである。大人になってから、「その凌ぎ方」を学ぼうとしても、おそらく手遅れだろうと思われる。いや「手遅れ」ということはないだろうが、子どもの期間に練習ができることを、大人になってから練習するのは、「残された時間」を考えると、もったいない、という程度かもしれない。
 子どもの期間に課される「わからないこと」である「勉強」を「遠ざける習慣」がついてしまっている人は、おそらく大人になっても「わからないこと」を遠ざける。「どうしたらいいかわからないこと」から目を背け続けた人というのは、それだけ「わからないこと」を解決しようとする能力に、おそらく乏しくなる。果たして「それ」が問題なのかというと、おそらくそんなことはまったくない。ただ「赤ちゃんにできること」は少ないように、子どもの頃から「できないこと」から目を背け続けている人は、「目を背けなかった人」よりも、おそらく「できること」は少なくなる。これは「できることの数」の大小ではなく、「できないことを克服しようとしないのなら、できることは増えないだろう」というものである。当たり前のように「わからない!」と投げ出してしまう傾向にある人というのは、僕の想像ではあるが、「その姿勢」で生き続ける。なかなかそれを「変える」ということは至難の業であろう。見方を変えると、「それ」にはある程度の「練習」が必要なのである。そして「勉強ができないこと」以上に「その練習をしてこなかったこと」が、おそらく「なりたい自分」に近づくことを難しくする。「こうなりたい!」と人が思ったときというのは、たいてい「何らかの障壁」を突破しないといけないことが多い。その突破の過程で「わからないこと」だとか「できないこと」が登場するのは、ごくごく自然なことであり、「それ」を投げ出してしまえば、当然「理想」に近づくことは難しくなる。「夢を叶える」ということにも、おそらく関わってくる。僕は「夢」をもっているわけでも、叶えた経験があるわけでもないので、「夢を叶える」ことに関してあまり詳しくはない。もちろん「勉強をしたら夢を叶えられる」ということではなくて「夢を叶えるためには、何らかの『できないこと』を克服しないといけないのではないか」ということである。「勉強をすれば夢を叶えられる」と言っているのではない。そもそも僕は「夢」をもったことがない。
 「勉強をすると人生の選択肢が増える」と、どこかで聞いたことがあるが、僕は「勉強」が「人生を豊かにする」とはまったく思わない。まるで「教科書のなか」に希望が溢れているかのようである。そうではなくて「勉強をしない態度」は「わからないことから目を背ける」ものであり、わからないことから目を背けるのであれば、選択肢は広がらなくて当然である。「態度による可能性の幅」である。もし「教科書を読んでいるだけ」でバラ色の人生になるのなら、誰もが好んで教科書を読むだろう。そういうことではないのである。ただ、勉強をすれば可能性は広がるのか、と問われても、それは定かではない。というのも「これをやれば可能性が広がるのか?」と確認を求めること自体が、「勉強」からやや逸脱している。「可能性が広がるのならやる」ものではなく、あなたがあなたのできないことやわからないことを、できるようにしたり、わかるようにしたりすれば「その先」が見えてくるのではないか、というだけのことなのである。その「わからないこと」や「できないこと」というのは「人それぞれ」であり、誰かが予言することなどできない「個人的なこと」に過ぎないのである。
 「わからないこと」を遠ざけようとしない限り、「勉強」は続いていく。そしてそれは「子ども」であっても「大人」であっても、同じなのである。続けるか続けないかは「その人」によるものであるが、誰にとっても「続けていこう」とすれば、続いていくものだろうと思われる。「勉強」は永遠である。

89生きているから勉強できる
 生きているから、「勉強」ができる。生きている時間のなかに「勉強」がある。「生きる」と「学ぶ」は分離したものではなく、「同時に存在しているもの」である。
 僕は「生きること」を超えてまで勉強をする必要はないと感じている。「生きる」を超えてまで勉強をするなんてことは、そうそうないだろうが、考えられることとしては「勉強によって生きづらくなる」ということである。勉強が苦手だから生きづらい、勉強が不得意だから惨めに感じる、そんな方々もいるのではないかと、想像している。
 「生きていればそれでいい」というのが僕の考えである。何事をするにしても、そのように考えている。「勉強ができる」だの「勉強ができない」だの、言ってしまえば、すべてが「邪念」である。人間は「生きること」に執着し過ぎている。何か立派なことをしなくてはならない、誉められなくてはならない、すごいことをしないといけない、すごいことをしたい、幸せな思いをたくさんしたい、そんな「邪念」に溢れている。「勉強ができる環境」にあることを忘れて、「誰かに勝つこと」を目的として勉強することも、「誰かに負けたこと」を嘆くことも、結局は邪念である。人生を彩るために勉強することも、勉強ができないことが人生を彩らないものにするという発想も、邪念である。そもそも「勉強ができた」ところで人生は豊かになるわけでもなければ、「勉強ができない」ことで人生が不幸せになることなどない。そうなるとするならば、「そうなる」と考えている方の自らの誘導によるものだろう。自ら「そうしている」と思われる。
 「勉強」によって何かが否定されたかのように感じられるときは、勉強から離れるべきときであろう。「何かが否定される」、つまりそこには「誰か」が介入している。介入している、というよりも、誰かの存在を感じながら「その人のため」、「その人に向けて」、勉強をしているときだろうと、思われる。「自分のこと」に集中することができなくなっているサインとも言える。そんなときは、離れた方が、賢明であろう。「勉強」は「しなくてはならないもの」では決してない。「勉強によって苦しむ」のは本末転倒である。
 おそらく「生」をより良いものにするために、人は「勉強」をするのだろう。「勉強」によって何らかの利益を得ようとしているのだろう。「勉強」による何らかの利益を期待しているのだろう。そう期待するものには、「何らかの利益」があるだろうし、何らかの作用によって「より良い生」につながることも考えられる。
 僕は何をもって「より良い生」というのかはまったくわからないが、「より良い生」を探して生き続けさえすれば、それは「より良い生」なのではないか、と感じている。「より良くしよう」としさえすれば、それで十分、「より良い生」なのではないか。そんな風に考えている。そして「より良い生」は「生あってこそ」だろうので、「より良い生」を求めて「生」を否定する行為は、なかなかに肯定しがたい。少なくとも「そこまでして」勉強ができるようになるメリットはない。「生きているから勉強できる」、それを忘れないようにすることは、それなりに面白みのあることではないだろうか。

90「生きる」とは未知の世界
 「生きる」とは未知の世界である。僕はまだ23年の月日しか生きていないが、「生きる」とは未知の世界であると感じている。当然のことながら、現時点で「未来」を見ることはできない。どんなに頑張っても「想像」の世界である。計画を立てて、未来に向かっていくとなると、ある程度「こうなる」という具体的なものを想定することはできるが、それもあくまでも「想定」である。人間に「未来」をコントロールできる能力があったら、なんと楽に生きられることだろうか、と思いたくなるほどに、人間は「未来」を見ることはできない。「わからない空間」を歩んでいかないといけないのも、人間の使命なのかもしれない。
 「どうなるか分からない未来」に向かって、「毎日」がある。未来のことは分からずとも、「今日やること」はなんとなく「分かる」だろう。それも「分からない」と言ってしまえば、その側面も確かにあるのだが、例えば、今日は学校に行くだとか、今日は会社に行くだとか、どこどこへ旅行に行くだとか、ずっと家にいるだとか、ある程度「今日やること」は「分かること」に近い。ただそれを「積み重ねていった先」は、分からない。そんな構図がある。
 これを踏まえると、「分からないことと向き合うこと」とは「生きることの縮図」と言えるかもしれない。「生きること」とは「未知」であり、「分からなこと」なら、「分からないことと向き合う」とは「人生そのもの」ではないだろうか。そんな風にも思えてくる。今わからないことと向き合わずとも、行き着く先は「わからないことと向き合う人生」である。結局、「わからないこと」を受け入れないことには人生は進んでいかないのである。ということは「わからないこと」こそ「生の象徴」なのではないか。「わからないこと」が生を楽しく、面白くしてくれるのである。「わからない」からこそ、「何かする」ことが、私たちには求められるのではないか。人間は「わからない」なかで、生きていく使命を抱えている。生きている以上、何らかの「わからないこと」と向き合わなくてはならず、その点で勉強は「何かにおける練習」になる、と言えるだろう。改めて「勉強」とは「わからないことと向き合う時間」である。
 僕は自分の未来について、まったくわからない。とりあえずわかっていることは、「0円教育」を進めていくことぐらいである。ただそれが「どのような形になるか」はわからない。「どのような形になるかわからない」からこそ、「何か」するのである。何もしなければ、何も始まらない、ということのみが「分かること」である。「分かること」のつまらなさといったら、この上ない。
 「わからなさ」とは「面白さ」である。「予測できない部分」が「面白く」させるのである。「こうしたらこうなる」とは、必ずしもいかない部分に「面白さ」があるのである。その面白さを感じる機会は、おそらく「勉強」にも存在する。「勉強をしたら何になるのか」の問いに対して「わからない」と答えることが、最も「勉強」を面白くさせるのではないか。「勉強をしたらどうなるか」が「わからない」から、「勉強をしてみる」のが面白いのではないか。もし、明確な答えを求めるならば、「何もしなければ、何も起こらない」ということであり、「何かを起こす必要」は必ずしもないだろうが、「何かを起こしたい」のなら「何かをしてみる」必要はありそうである。「勉強ができるようになりたい」と思うのであれば「勉強をしてみる必要」はありそうである。僕はいったい何を言っているのだろうか。自分でもよくわからなくなっている。と、また「わからない」という言葉が出てきた。もはや本当に、わからなくなっている。
 生きるとは、「未知の世界」の冒険である。「わからないことと向き合う」という点で「勉強」は「その縮図」といえる。「その縮図」で「生きること」の練習をしてみてはいかがだろうか。たとえ「勉強」それ自体に意味がなくとも、なんらかの意味を発見できるはずである。「人生」と「勉強」は、そのような点で共通している。「勉強の時間」は、その出来不出来によらずして、「その人の人生」に何らかの影響を及ぼすだろうことを、僕は確信してやまない。

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