0円教育物語⑭ 楽しさは永遠なり。
66「目標をもつ」という楽しさ
「目標をもつこと」は楽しいのである。「目標に向かうこと」は楽しいのである。
「目標」ができると、「やるべきこと」が明確になり、行動が具体的になる。行き場所が決まっていない旅行よりも、行き場所が決まっている旅行の方が、「具体的にどうやって楽しむか」を考えられるだろうと思われるが、それと同義である。「具体的にする」とは「楽しい」に近づいていくものである。「ぼんやり」していると、「楽しみ方」も鮮明になってこない。
つまり、目標をもつことで「生きる方向性」を定めることができる、と言えるだろう。生きる方向性が定まれば、「その中でどのようにして楽しむか」を考えられるようになるので、「楽しみ方」を発見できる可能性が高まると、思われる。「楽しい」とは限定的な感情ではなく、「あれも楽しい、これも楽しい、そんなことも楽しい」といったように、あらゆる範囲に適応可能な感情なので、「これをしたら絶対に楽しい」といったものを探そうとする必要はない。方向性を定めて、「その範囲」で楽しいことを探せばそれでいい、というのが僕の考えである。京都なら京都の楽しみ方、東京なら東京の楽しみ方、静岡なら静岡の楽しみ方、沖縄なら、北海道なら、それぞれの楽しみ方があっていいのである。
日常のなかで「楽しい」と思えることは、それなりに多くある。たとえば友だちとご飯を食べにいくことは、楽しいだろうと思われる。旅行に行くことは、楽しいだろうと思われる。カラオケに行ってたくさん歌うことは、楽しいことだろうと思われる。相撲を見に行くことは楽しいことだろうと思われ、映画を見ることは楽しいことだろうと思われる。
僕は、僕以外の人間の感情は、確認することはできず、外から見ていて「楽しそうだな」と感じることで、人が楽しんでいるのかどうかを判断するのが限度であり、これらはあくまでも推測にはなるが、SNSに「それら」を投稿したくなる感情や、「それら」を積極的に行いたくなる衝動に駆られる人が多い様子を見ていると、多くの人にとっては、それが「楽しい」のだろう。
ただ「そのような楽しさ」は「諸刃の剣の楽しさ」ではないか、と僕は思う。というのも、それが終わった瞬間に、「終わってしまった」という寂しさや悲しさ、楽しかった時間を基点とした「それとは逆の感情」が生まれるのではないかと思われる。「日曜日の楽しさ」が「月曜日の苦痛」を加速させるといったような、そういう楽しさではないだろうか。もっとも「それ」がよくないものではない。「そういう楽しさ」は「楽しい」ことも「楽しくないこと」も感じさせるものだと、僕には思える。それを「楽しい」と表現するのかどうかは、僕にはやや疑問ではあり、月曜日がより億劫になるのなら、日曜日の楽しさを「楽しい」とは表現できないのが、僕の感覚である。
それらは「一時的な楽しさ」とも言えるだろう。「カラオケに行く時間」を楽しむもの、「食事をしている時間」を楽しむものである。カラオケが終われば楽しくなくなり、食事が終われば楽しくなくなる、そんな感がある。または日常の嫌なことをいったん忘れる、「現実逃避的な楽しさ」とも言えるかもしれない。「幻のような楽しさ」である。気がつくと存在していたのかしていなかったのかわからなくなる、そんな楽しさである。それは「楽しい」のか、これまた疑問ではある。
僕は「楽しい」とは、「個人的な感情」だと考えている。自分の外側にある何かによって「楽しくなる」というよりは、自分の内側の何かが刺激されることで、湧き上がってくるものだと、思っている。たしかにカラオケも、外食も、旅行も「楽しい」だろうが、それは「楽しくないこと」から逃げられることによる「楽しさ」であり、自分の感情を刺激して湧き上がってきた「楽しさ」ではないように思えてしまう。「自分の外側」に楽しさを求めることが、「楽しい」という感情からは少し離れているように思うのである。カラオケに行くこと=楽しい、外食すること=楽しい、旅行に行くこと=楽しいではなく、楽しいと感じること=楽しい、のである。もちろん、友だちがたくさんいること=楽しい、ではない。自分の感情を通り越してまで、カラオケが楽しくなることも、外食が楽しくなることも、友だちが楽しくさせてくれることも、ないのである。
67「目標に向かう=勉強」である
ここで「勉強」に戻ってきたい。「目標に向かう」ということと「勉強をする」ということは、非常に似ている。
「目標に向かう」とは、必ずしも楽しいことばかりではない。むしろ「楽しくないことを楽しいにつなげる」というものである。断片的に切り取ってしまえば、「楽しくないこと」などたくさんあるが、それは「ゴールの楽しさ」を求めるからこそのものであり、それがあるから、ゴールに近づいていくのである。ここでいう「ゴール」とは「目標を達成すること」である。もっとも、「目標」は「その人が達成したいこと」であろう。
「勉強をする」ということも、必ずしも楽しいものではない。楽しいことばかりではない、と言える。だからこそ、その苦痛に嫌気がさして、勉強をしない選択をとる人や、
勉強を諦める人が、生まれるのだろう。勉強をしていれば、自ずと「できないこと」に遭遇し、「わからないこと」に出会う。それを解決しようとするには、それなりのエネルギーやパワーが必要であり、つまり「頭を使う」ことが求められる。考えることなく、ただ感情に任せて楽しめれば、「ラクに」楽しめるのだが、そうはいかないのが、勉強である。「目標を実現する過程」と同様に、ある時間を切り取ると、当たり前のように「まったく楽しくない時間」が存在する。おそらく人間にとって、より動物的になった方が、ただの快感、快楽、欲求を満たすだけになった方がラクだろうと思われるので、「頭を使わなくてはいけない」という労力はそれなりに、疲れる。「それこそ人間のもつ能力」とも言えるのだが、「人間らしくあること」を維持するのは、それなりに疲れることである。走るよりも歩いたほうがラクであり、歩くよりも動かないほうががラクであり、動かないなら、立っているよりも座っているほうがラクである。エネルギーは極力使わないほうが、人間にとっては都合がいい。それと同じように、頭は「使わない」ほうがラクなのである。「頭を使う」というエネルギーを掘り起こすことも、掘り起こしたエネルギーが「わからないこと」によって行き場を失うことも、「楽しい」はずがないのである。それが「快感」なはずがないのである。
では「勉強」とは楽しくないものなのかというと、そんなことはない。「勉強をすること」は楽しいのである。「それ自体」はまったく楽しくないにも関わらず、それをやるという「労力」を掘り起こしてまで、「自分を高める行為」をしようとするときに、勉強は楽しくなる。「つまらない」から「楽しくなる」のである。つまらないことに自らのエネルギーを注いで、そうまでして、自分を高めようとするから、「楽しいもの」に変化するのである。「自分を高めたい!」と思えば、「今の自分」に対して、多少の負荷をかけていかないといけないことは、言うまでもない。筋トレを「ラクな範囲」でやったところで、筋肉に刺激は少なくて当然である。「筋肉を大きくしたい!」や「筋肉を強くしたい!」という目的でトレーニングをしようと考えるのなら、「ラクにやること」はまったくそれに応えるものにはならない。「ラクにトレーニングをしたい人」は筋肉に刺激を与える気のない人である。つまり、それほどの成果はないだろうと、想像できる。「できないことをできるようにする」とは自分の限界値を少しでも上げようとする行為である。
では、どのようにしたら、「その労力」を掘り起こしてこようと思えるかというと、それが「目標」である。「勉強をして、こうなりたい」という目標である。「永遠の学び」を自らに課して、それを原動力に勉強ができてしまう人はそうではないのだろうが、「自分を高めた結果、こうなりたい」の思いが、「勉強をする」というつまらない行為を楽しくさせるのである。「つまらなさ」を感じることが「楽しさ」である。「しんどさ」を感じることが「筋肉を大きくする」ことにつながるのである。「しんどさ」とは「楽しさ」である。
目的もなく、目標もなく、「しんどい筋トレ」を日課にすることは無理がある。何の目的も目標もないのなら、それは修行であり、「どうなるのか分からない」にも関わらず、頑張ることは人間にとっては、おそらく難しい。筋トレをしてモテたい、かっこよくなりたい、強くなりたいといった目標が、「しんどい筋トレ」を楽しいものにするのである。それは「モテたいから」であり、「かっこよくなりたいから」であり、「強くなりたいから」である。「誰々みたいになりたいから」でもいい。「なぜそんなにしんどいことをするのか」の「理由」が、しんどいことを楽しいことに変化させるのである。
つまり、「勉強が自分にとって楽しいものになる」ことを期待していても、いっこうに「楽しくなる日」は来ないだろうと思われる。「楽しくやりたいな」と思い続けて、ある日突然、朝起きたら「勉強が楽しい!」と感じるようになった、なんてことは、おそらくおこらない。すなわち「勉強」とは永遠に、人間にとって苦痛を伴うものである。ただ、その苦痛を楽しむことは、自らの意志でできるようになる。それが「勉強をして、どうなりたいのか」という「その人の目標」であり、「それを達成したい」という思いである。
残念ながら、勉強は楽しいものではないが、だから、人間は勉強を楽しむことができる、のではないだろうか。「勉強がつまらない」とは、ごもっともである。
68目標によって永遠に楽しむ
僕は「短時間の楽しみ」を楽しいとは感じることができなくなっている。何時間後かには楽しくなくなるだろうことがみえると、何も感じなくなってしまう。楽しくなくなるだろうことを予感すると、「今の楽しさ」などどうでもよくなってしまう。つまり「長時間の楽しみ」にしか、興味がないのである。ただ、「長時間の楽しみ」は、すぐには楽しくならない。いつか心の底から楽しくなることに期待しながら、毎日を過ごす、というものである。「今日楽しいかどうか」ではなく、「自分は楽しいことに向かっているのか」が楽しさを感じるポイントである。僕は、「人生」は、今日だけ楽しい、明日が楽しみ、という感じではなく、「ずっと楽しい」ものにしたいと、思っている。「ずっと楽しい」ためには「何らかの目標」に向かう必要がある。現実をみて、現実のなかで、現実と向き合いながら、未来の楽しみに向かう。現実逃避的な楽しみは、僕にとっては「楽しさ」ではない。
先に「友だちがいないこと」を例に出したが、僕にとって、「友だちがいるかいないか」など、どうでもいいことである。そして、「それ」が何かの問題を生むようには、あまり思えない。というのも、友だちがいなくたって、楽しく生きる方法はあるのである。もっというと、旅行に行かなくたって、外食をしなくたって、人に自慢できることを成し遂げなくたって、人から「楽しそうだな」なんて思われなくても、「自分が楽しむ方法」など、無限にある。誰かに「僕が楽しんでいる様」をみてもらわなくたって、楽しむことなんか、簡単にできてしまうのである。「友だちがいないこと」と「不登校」を結びつける議論についても、やはり的がずれている。そういうことではないのである。少なくとも、人生を楽しくするためには、「楽しい時間をつくる」のではなく、「楽しい時間に向かう」必要がある。「楽しい時間に向かう」とは「目標をもつこと」であり、「目標がないとき」ほど、「友だちがいないから」だとか「旅行に行けないから」といった「外部のもの」に理由を見出そうとする。「楽しい」とは自分の感情、つまり「自分の内側」のものである。「外部のもの」によって楽しもうとするのは、「楽しくないから」である。「楽しくない現実」から目を逸らそうとしている行為である。
目標さえ持てれば、少なくとも「やること」ができるので、ある種の「楽しさ」を感じることができるはずである。というのも、「達成したい」と思うものが「目標」になり得るので、「何らかの感情を満たそうとする」時間がつくれるのである。人は「何らかの感情」を満たそうとするとき、「楽しい」と感じる動物である。もし「満たしたい」と思わないのであれば、それはおそらく「目標」がずれている。満たしたくないものは、残念ながら、「目標」ではないだろう。
ここで「楽しむ」ということの一つのハードルとして、「目標がわからない」という状態が考えられる。「何を目標とするのか」に困る状態である。たしかに、それでは「目標に向かう」ことは難しく、楽しむことも難しい。
では「目標がわからない」というときはどうすればいいか。簡単である。「目標をみつける」という目標を立てればいいのである。「目標に向かうこと」が楽しいと理解できているからこそ、「目標」を探そうとするのである。「目標を探すこと」も十分立派な「目標」になる。「目標をみつけたい」と思わないことには目標はみつからないだろうし、「目標をみつけたい」と思わないことには「目標がないこと」がストレスにはならない。ただこの「ストレス」はいい方向に向かうためのストレスであり、このストレスを受け入れることもまた、「目標をみつける」ことにつながるのである。「目標がない」という方は「目標をみつける」という目標を立てると、きっといい。
それが「ないもの」であるならば、「目標をみつける」には何らかの行動が求められる。今みつかっていないものなら、見つけるためにはちょっとした労力が必要である。そして、目標は自分に関わりのない領域については、生じ得ない。例えば僕はサッカーにおける目標は持ちえないし、将棋に関する目標は持ちえない。「関係のないところ」に「目標」は生まれない。何らかの関わりがあってこそ、はじめて「目標」が発見されるだろう。
そのように考えると、もし「勉強」における目標を見つけようと思ったら、まずは「勉強をやってみる」ことが必要になる。「勉強をやらない」のなら、それはおそらく「関係のないこと」になるだろうから、それは僕にとっての将棋と似たものなので、「目標」はみつからなくて、当然である。まずは「関係をもつこと」が目標をもつのには欠かせない。勉強をやらずして、勉強の目標をもつ、というのは、おそらく不可能である。勉強における目標を「見つけたい」と思うのなら、勉強をやってみるところから始めてみては、どうだろうか。
「目標」が「勉強におけるもの」である必要はまったくない。「勉強は自分には関係ない」と思えば、おそらく目標はみつからないだろう。見つからないものを無理して見つけようとする必要など、もちろんない。何度も言っているが、「勉強」はそこまで崇高なものではない。ただ、「自分にできないこと」や「自分に分からないこと」が当たり前にゴロゴロ転がっている「勉強」は、関わってみると、比較的、目標を見つけやすいものだと、僕は思う。定期的に「テスト」が用意されていることも、おそらく「目標づくり」には役に立つ。見つけやすいなら、「それ」を使って、「楽しむ練習」をしてみるといいのではないか、という提案である。
69必要なのは、達成しえる環境である
では何らかの目標が見つかったとして、「それ」を達成できる環境が必要である。目標を見つけるのは「自分」であっても、人間は、すべてのことを「自力」でやれるほどに、強くはない、と思われる。「勉強」でいうならば、「勉強ができる環境」である。これが必要になる。
もうすでに、何らかの環境を持っている場合は、特に問題はない。子どもの勉強でいうと、お父さん、お母さんが手伝ってあげられるとか、誰か教えてもらえる人がいるとか、塾に行けているとかが、考えられるだろう。
目標をもつことができても、目標に向かう過程で何らかの障壁があると、それは停滞につながる。「目標に向かう」ことの楽しさを求めつつ、「向かう過程」で停滞してしまっては、非常にもったいない。もし、「頑張りたい」と思う子どもがいるにもかかわらず、「頑張ろうとしたところ」で停滞が始まったら、そしてそれによって、その子が元気を失うことにつながったら、それはどう考えても、大人の責任である。「目標に向かう」とか「夢に向かう」ということを美化する大人の無責任さが、子どもの元気を奪いかねない。そして、この「目標が見つかった先」の格差、つまり「目標に向かえる子」と「目標に向かえない子」の格差は、深刻である。「友だちがいないこと」なんかよりも数段上のレベルで、深刻な問題である。それがどんな目標であれ、「誰もが目標に向かえる環境」はできる限り整えてあげたいのが、僕の思いである。目標を見つけた子どもを放置しておくのは、社会問題だと、僕は考えているし、ましてそれが「大人がお金を稼ぎたいから」という理由によるものなんて、どのような顔をして子どもたちに説明したらいいのか、僕には分からない。それでは、子どもたちに「目標をもつこと」や「夢をもつこと」をすすめればすすめるほど、目標搾取であり、夢搾取である。そんな大人では、何とも情けない。そしておそらく、そんな大人は、何の目標も、何の夢ももっていない。そんなものである。
「学力格差」は「仕方のないもの」ではない。ただそれは「テストの点数」のことを言っているのではない。むしろ、「テストの点数の差」でなんて、どうでもいいのである。「テストの点数では必ずしも測ることができない差」に目を向けなくてはならない。前にも述べたが「テストの点数の足並みをそろえること」が学力格差の改善ではない。テストの結果をみて、ようやく気がつくような「格差」など、大した格差ではないのである。そんなことよりも、「勉強をする」という選択肢を遠慮してしまう環境にある子ども、勉強における目標を「一人では実現できないから」という理由で停滞が余儀なくされている子どもには、明確に「格差」がある。これを改善するのに「大人の事情」など、それっぽい言葉でごまかしている場合ではない、と僕は強く思っている。
子どもたちが目標に向かって、楽しんで、元気でいてくれるなら、それだけで十分に利益ではないだろうか。そろそろ視点を変えるときである。自らの懐にいくらのお金が入ってくるか、など、たいした利益ではないことに、気がつくときである。自らの懐にお金が入れば入るほど、もしかしたら大損しているかもしれない可能性に目を向けるべきである。それが資本主義なのだろうか?なるほど、面白そうである。僕は「資本主義」をあまり分かっていないようである。
70子どもたちを止めない
子どもたちを止めてはいけない。子どもたちの停滞は、「社会の問題」としてしっかりと向き合わなくてはならない。ただ「社会」に解決を求めると、解決までに時間がかかってしまう。「いつか誰かが解決してくれるのを待つ」のは、無責任である。僕がその役割を担えるわけではないだろうが、おそらく僕にもできることはある。それが「無料塾」であり、「きょうえい塾」である。「その協力」であれば、僕にも何らか、できそうである。
「子どもたちを止めない」とは、子どもたちの「流れ」を止めない、ということである。「困っている」という流れ、「うまくいかない」という流れ、「できるようになりたい」という流れ。このような「流れ」がどこかで止まってしまうことで、おそらくそれは、大きな問題へと様変わりしていく。「そうなってから」解決しようとしても、遅いのである。大きな問題になってから、問題に気がつくようでは、遅いのである。「何らかの問題」の流れも、止めてはいけない。すべてを流しておく。流れるようにしておく。「困っている子」がいなくとも、「困っている子」が流れてこれる場が必要であり、「うまくいかない子」などいなくとも、「うまくいかない子」が流れてこれる場が必要であり、「できるようになりたい子」などいなくとも、「できるようになりたい子」が流れてこれる場が用意されてなくてはならない。
学校にすべてを頼る、のはあまり現実的ではない。残念ながら、性犯罪で捕まる人も、学校の先生をやっている時代である。「そんな人は先生になるな!」とガヤを飛ばすことは簡単ではあるが、たとえガヤを飛ばしても、「その環境」で生活するのは、子どもたちである。無責任なガヤ飛ばしに満足していては、おそらく「学力格差の問題」は改善されない。もちろん「学力格差の問題」とは「学力の差が、元気の喪失につながる」という問題である。「学力の差」それ自体に、問題はあまりない、というのが、僕の考えである。
ただ、もし「学力を改善したい!」と思う子が、「そうはいかない」状態にあるのなら、それは「問題」である。「学力が周りから遅れているように感じる」と悩んでいる子がいるならば、それは問題である。そこで止めておいて、いいはずがない。
どうやら、学習面についていけなくなると、子どもたちの元気は喪失されやすいらしい。僕は統計をとったわけでも、取材をしたわけでもないので、「実態」は分からない。ただ、少し考えてみると、当たり前に、一日中授業が行われていることを考えると、そしてそれが週五日あると考えると、不自然なことではない。そんなにも長い時間、「自分は周りと比べて遅れている」と感じ続けるとなれば、心の健康を保つことは難しいだろう。「勉強」が「心の健康」と関連していても、やはりおかしなことではないと、思われる。
子どもたちが止まらない。子どもたちが流れる。子どもたちの動きとは「経済」である。お金なんか以上に、経済である。子どもたちの動きを止めることは、不経済である。不経済であるから、「止めてはいけない」のである。そこでは何よりもまず、「流れを止めないこと」が優先されるのである。
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