仏教の考え方で生活の概念を代える
GWももう3日目の半分が終わり、残り2日と半日になっている。
天気は通り雨を経験しながらもほぼ晴れ。
僕の住んでいる地域は普段はわりと観光地になっていて、今流行の”昔ながらの”街並みと飲食店があるので、本当だったらもう少し賑わっているか、今この文章を書いているシェアスペース自体も何かお店を開いていたと思う。
緊急事態宣言が改めて発令され、ただの散歩通りとなってしまったこの通りを歩く人々は何を考えているのだろう。
そんなことを考えながら、GW明けまでに終わらせないといけない仕事をこなしている。
今までの記事の中でも伝えている通り昨年、コロナ真っ盛りの中、風呂なしの賃貸に引越してきてから自信の生活は今までと180度(実際には135度くらいかもしれない)変わった。
世間は相変わらずリモート環境で維持されている中、この生活は一種の最低限生活ではないかと思い始めてきた。
オフィスでの過剰な空調、そして娯楽としての食事をできるだけ控え、推奨されている広い公園での適度な運動の生活は中々に人類を明治、大正時代あたりに戻してくれているように感じる。
コロナ禍で制限されているいろいろなことと言うのは、大まかには人々の欲のようなものだと思う。音楽のフェスへ行くこと、大衆居酒屋でお酒を飲み仲間たちと語らうこと、いずれもエンタメや本来の食事から離れた余剰の生活体験である。
それらが悪だと言う話ではなく、本来人間が生きていく上では不要だったものが、今の経済発展を遂げ娯楽に満ちた世界では、なぜか「それがないと生きる上での楽しみがない」といった意識が自分の中には習慣的に植え付けられていた。
実際に真っ先に不要だと思ったツイッターやインスタグラム といった生きるための仕事に必要のないSNSは見ないようにしてからはや1ヶ月以上、そしてアカウントの削除を行ってから3週間程度が経過するが、現状全く不都合はなく、それどころかこれまで年々低下していると感じていた集中力がぐんぐん戻ってきたと感じる。
(この集中力の度合いは、かなり個人的ではあるが大学受験で浪人した時の境地に似ている気がする。そういえばあの時も、当時はやっていたmixiと初期Twitterを削除した)
ここまでの話を一旦整理すると「過剰な幸福への欲求を捨てよう」ということだ。
釈迦の教えによると、世の中は努力したとしてもそもそもそういった人々の幸せを叶えるような仕組みにはなっていないし、欲求を増やせば増やすほどよりがっかりしてしまうらしい。
それならば、いっそどこかぼんやりとした幸福になるという概念を捨てて、自己鍛錬によって得られる「何か」(この「何か」と言うのは自己の幸福ではない別のもの)のために生きようといった考え方になってきている。
今まで30年間で形成してきた、他人から見られているキャラクターとしての自己は一度捨てて、新しい人生のスタート地点としたいと思う。
そのような考え方で生きることで何が今の人生の代わりになるのか。
ここで言う代わりというのは代替可能な人生と言う意味で、なるべくどんな人にも可能な新しい生活を考えたい。
そんなことをツラツラと記録していこうと思う。
今、考えているテーマは3つ。
・ SNSを捨てた暮らし
・利用する住宅設備の削減(東京編)
・外で働きながら、地域に属する(根津ー柏 編)
そういえば東京都内における銭湯のサウナが緊急事態宣言で閉鎖されていた。
これも余剰だと思って諦めることにする。
こんなことでいちいちがっかりしたり、憤慨したりするのは限られた脳味噌の容量の無駄遣いだというもんである。
GWの上野はほとんど人がいない。HUBも休業していた。これからは飲食店自体どのような形態で経営するかがと問われる時代になりそう。