ジャズと落語: 100年に渡る長い関係。①
レコードの歴史を私なりに考えてみた。今回はジャズレコードと落語について考えた。レコードは百年以上の歴史をもつ音楽メディアだが、令和になってなぜか復活し、現在、音楽文化の世界で新たに大きな役割を果たそうとしている。落語に関しても落語家が増えているという点で成長を続けているのではないだろうか。私は学者ではないし、レコードや音楽文化を専門に研究しているわけでもない。(そんなことは百も承知、二百も合点という声も聞かれるが)いうなれば、現役のレコード店経営者としての実体験や、少しばかり書籍で読んだ程度の知識しかないので、そのつもりで読んでいただきたい。
もう8年も前になるが、雑誌ポパイでも特集された「ジャズと落語」。これが発売された当時は話題になった記憶がある。非常に面白い内容でおすすめだ。ジャズと落語は一見関係ないように見えて実は共通項がとても多く、両方を嗜まれる方が実は昔から現在に至るまで非常に多いことがわかった。
ジャズと落語の第一の共通点は「ともに古典の再演が多く演者によって味が変わる」ということだろう。
しかし、それぞれを聞かれた事がない方にとっては
「何から聞いていいかわからない」
「何がジャズで何がジャズでないのか、何が落語で何が講談なのか違いがわからない」
という意見であり、私もよく尋ねられる。
何がジャズなのかは別の機会に書くとして、私の場合20年ほど前から、「落語」をレコードやCDで聴くようになった。落語についてはこちらに書いたので読んでいただけると幸いである。
私には贔屓にしている落語家がいる。落語家は立川志らく師匠の15番目の弟子の立川うぃん君だ。もう10年来のお付き合いである。2021年に二つ目に昇進し若手のホープとして大活躍されている。落語界で唯一「ボブ・マーリーの墓参りに行った噺家」として、レゲエ好きな私とすぐ意気投合した(笑)。
落語とジャズの長い歴史
落語は300年以上の歴史、初めてのジャズレコードが発売されてから約100年以上の歴史と言われる。落語の方が圧倒的に歴史が長い。そんな落語とジャズについて、ジャズが日本に普及し始めた1920年代頃からの歴史を調べてみた。
1917年・ジャズのレコードが初めてアメリカで発売
ジャズのレコードは1917年にアメリカで最初のジャズレコードとして発売されたのが、白人のメンバーによるオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド(Original Dixieland Jass Band)が発売されたことに始まる。当時はJAZZではなくJASSと表記されていた。(注 1) しかし「白人のジャズバンド」ということに違和感を持たれる方も多いと思うが、こちらに関しても今後調査したいと思う。
1920年代・初演奏から急激に進化 金語楼ジャズバンド結成
日本で初めてのジャズの演奏は、奇術の松旭斎天勝の一座の公演の出し物としてアメリカ人のバンドによりジャズが演奏された。時期は1925年とされている。(注 4)
ジャズのレコードが日本に初めて輸入された時期は不明だが、もしかしたら1925年より前に、日本でもアメリカのジャズレコードが流通していたかもしれない。横浜にチャブ屋という外国船の船乗りを相手にした特殊飲食店があったそうだが、そういう所ではすでに船乗りが持ち込んでレコードをかけていた可能性もある。
古今亭志ん生の「猫の皿」の枕で「昔のことは証拠がないからよくわからない」という一節があるが、まさにもう誰も証明できないのだ(笑)
日本初のジャズと落語を組み合わせたキーマン「柳家金語楼」
大正時代から昭和40年代まで人気を博した柳家金語楼という落語家がいる。俳優としても活躍し喜劇映画やテレビのコメディ番組などで活躍した。「戦前は吉本興業(東京吉本)に所属し、横山エンタツ・花菱アチャコ・柳家三亀松・川田義雄と共に吉本の五大スターと称された。」(注 2)
そんな柳家金語楼が「落語ジャズ」として大切(おおきり=興行の最後に大勢で珍芸などを披露すること)の余興として演奏したとの金語楼の自伝にあった。これが日本における初めての「ジャズ ミーツ 落語」ではないだろうか??
曲目はシャンソンの「モン巴里」~「新内流し」~クラッシックの「天国と地獄」のメドレー。全くジャズの演目ではないのだが(笑)これがウケにウケて浅草の寄席への出演を依頼され寄席から30分も時間を与えられ、即興でコント仕掛けのことをやったとある。出たてのジャズにいきなりコント組み合わせるの?と思いコントの内容を見てみると後年のコミックバンドを彷彿とさせるような、約100年前のものとは思えないので引用してみた。
舞台の幕が開く。
「タカタ・・・・・」と金語楼ジャズのバンドの音楽が入る。
ラッパ担当が音楽にならないような「プープクプープク」と可笑しな音を鳴らせる。
指揮者「どうしてきちんとやらないの?」
楽士1「だってラッパにはお金を払ったそうだけど、私はまだもらってないです!」
指揮者「そんなこと、きみ、お客さんの前で今、言ったって困るじゃないか。今、お金はないもの・・・」
楽士1「ないって、困りますよ。舞台を下りたら払うとか何とか….」
指揮者「そりゃ払うよ」
楽士1「払うって、いつも口だけじゃないですか!口だけじゃなく、手形を下さいよ、手形を!」
指揮者がネクタイをはずして渡す。と、こんどは別の楽士が、
楽士2「あたしの方はどうなるんですかね?」
指揮者「待ってくれ」
その後他のメンバーも続き、ズボンから靴下まで脱いで渡す。
一枚づつ着包みを剥がされストリップのような展開になる。
ということだろうが、これがまたウケにウケて大阪道頓堀でも公演した。これこそが日本のコミックバンドの先駆けでもあるだろう。新作落語のために新しいものを貪欲に取り入れた金語楼ならではのアイデアだ。 (注 5)
そんな金語楼が1927(昭和2年)に金語楼ジャズバンド名義のレコードを発売した。当時リリースされたレコード会社の目録を見るとジャズバンドと記載のあるレコードは皆無で、当時としてもかなり進歩的であったと思われる。金語楼の御子息の山下清が書かれた「父・柳家金語楼 」(注 6)に金語楼ジャズバンドのメンバーの写真がある。ジャズバンドなのに和太鼓や鼓があり、かなりアバンギャルドな編成である。やはりジャズは昔から自由の象徴なのだ(笑)
日本で初めてジャズ・バンド名義の落語のレコードである、1929年(昭和4年)に金語楼の新作落語「喧嘩の行方」を実際にレコードを聞いてみた。金語楼の出囃子「琉球節」だと思われるお囃子風の曲に木琴が入った邦楽ミクスチャー。荘厳な感じさえする。しかしはっきり言ってジャズとは言えないと思う(笑)
「落語ジャズ」からの「サモア・ジャズ」
その後、金語楼はジャズ・バンドだけでは飽き足らず違うスタイルも模索していた。そんなある日、両国国技館で見たサモア人(ポリネシア)の踊りからヒントを得て「サモア・ジャズ」を考案した。当時の寄席の責任者も「なんだか知らねぇけれど、面白そうじゃねぇか」と出演を承諾した(笑)
この曲はサモアジャズに影響を与えたと言われた「酋長の娘」。(現在は「酋長」という言葉は放送禁止用語だそうだ)
サモア・ジャズ誕生の背景には、昭和初期に流行したこの曲や小説「冒険ダン吉」が国内で流行し、南洋、ポリネシア周辺地域への国民の関心が高まっていた時代だった。その流れに便乗?した金語楼が考案した「サモア・ジャズ」のパフォーマンスは、ギターやタンバリンを装飾し、安価な布を身にまとい、身体を黒塗りの姿でデタラメな歌と踊りを披露するという内容だった。しかし、その場の勢いで続けた即興演技はすぐにネタ切れし、観客の笑いを引き出す前に終わってしまい失敗に終わった、自伝「泣き笑い五十年 (1959年)」(注 5)に記載がある。この曲は残念ながら音源は残っていないようだ。
当時の雑誌「改造」にサモア・ジャズを実際に観覧した方の記事があった。「豊満な尻を振らしめている」「サモア・ジャズの尻振りダンス!」と表現され「金語楼式モダーニズム」と締めくくっている。当時の金語楼の人気を物語っている。(注 7)
このように当時、かなりの強烈なインパクトを与えのは間違いない。島崎俊郎のアダモちゃんの先駆けなのだ(笑)
世界の「サモアンダンス」
でも世界的に見ると、1913年に当時「Mike Bernard/Maori a samoan dance」という曲が発売され1923年にも「Cameo Dance Orchestra」やDuke Ellingtonなどにもカバーされているので、これも由来になっているのだろうか。
なお、ロカビリー歌手として一世風靡した山下敬二郎は、金語楼と新橋花柳界の芸者の間に非嫡出子として生まれた。(注 3)
1930年代・ジャズが普及した頃のジャズと落語の関係
昔々亭桃太郎/ジャズ長屋
1920年代後半からジャズは当時の新作落語の題材にいくつかなっているし、実は柳家金語楼の弟の昔々亭桃太郎が「ジャズ長屋」として1933年頃にレコード化している。イントロには日本初のヒット・ジャズ曲「青空」風のジャズっぽい曲で始まる。噺の内容は、引っ越した長屋は、近所の人たちがジャズや音楽ばかり演奏してうるさく我慢ならない、ここは近所からちんどん屋とかジャズ長屋と陰口を言われている…当時は「ジャズ=うるさい」という事だったのだろう。途中で昭和5年のヒット曲、河原喜久恵のザッツ・オー・ケー のフレーズが入ったり笛の音や三味線の曲などが挿入されかなり作り込まれている。そして八木節風のコミックソングで終わる。オチが「八木節です=やけ節」と地口オチでサゲる。コミック・ソングの先駆け的なレコードでもあると思う。
二村定一/私の青空
Gene Austin /My Blue Heaven (1927)のカバー「二村定一/私の青空」は日本で1928年に発売されて20万枚以上の大ヒットした。
そしてジャズは戦前には娯楽音楽として広く普及していた。ディック・ミネの「ダイナ」は1935年に発売され100万枚のミリオンセラーとなった。1935年の日本の人口は約6900万人だったので、当時の人口の約1.4%がそのレコードを手に入れたことになる。その売れ行きの凄まじさがわかる。
このように、1930年代半ばには国内にかなりジャズが広まっていたのは間違いない。
次号では1940年代以降のジャズと落語の関係について書く予定である。
参考サイト
1 Original Dixieland Jass Band wikipedeia
2 柳家金語楼 wikipedia
3 山下敬二郎 wikipedia
参考文献
4 瀬川昌久vs柴田浩一 /日本のジャズは横浜から始まった P17
5 柳屋金語楼/人生泣き笑い50年
6 山下清 /父・柳家金語楼
7 寄席とラヂオ 著者:權田保之助 底本:「改造」第十一卷第十二號 改造社 刊 昭和四年十二月一日発行 ・古雜文庫 0142 令和二年十月十一日発行 発行者:永江良一 パブリックドメイン