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前略④

目覚ましをかけずに迎える土曜日の朝はずいぶんと久しぶりだった。たったの三日しかなかった盆休みがもう半年以上前のように感じられるほど、慌ただしい二カ月間だった。

カーテンを開いてベランダの窓を開けると、十月のよく晴れた朝の風が流れ込んできた。昨夜、久しぶりのビールを飲みながら、今更どうにもしようがないことをあれやこれやと振り返ったせいか、葵さんの夢を見た。

夢の中では、それこそちょうど私は小学五年生の、あの台風の夜に戻っていた。夢は、ナツ兄がいなくなった後の場面から始まった。
葵さんと二人で居間でしばらく過ごし、私の部屋に上ったところで、停電。
そこまでは現実と同じだった。その後、本来ならそのまま眠りこけてしまうはずだったが、そうはならなかった。

強まっていく雨と風が家をがたがたと鳴らし、それとともに暗闇の中に座る私の感情が昂って行く。不安とともに、むずむずとした火照りが、体の中に膨らんでいく。

どくどくと脈打つ興奮のリズムが募り、体の芯がきゅっと強張る。それは、台風への不安と、葵さんと二人きりだという慣れない状況への緊張が、極度に混ざり合って生まれた性的興奮だったのだろう。

私は暗闇の中、葵さんの隣に座って彼女の体温を感じながら、唐突に精通を迎えてしまったのだった。
現実の私がその性徴を経験するのはもう少し先だったのだが、それはさておき、夢の中の私は初めての感覚にどうして良いかわからず、涙ぐみ始めた。
葵さんはといえば、やがて臭いで気がついたらしい。

暗闇の中、葵さんは私の手を引き、手探りでゆっくりと階段を降りていった。ガラス戸越しに漏れてくる居間の豆電球のかすかな明かりのおかげで、階段を降りた先の廊下はかろうじて視界が効いた。ガラス戸を開けてすぐ足元の壁際にある懐中電灯を取ると、葵さんは私を風呂場に導いた。

懐中電灯のやけに白い光に下半身を照らされて、情けなさほろほろ泣く私に、葵さんは少し困ったような、でも決して嫌そうではない笑みを漏らし、洗うのを手伝ってくれた。

それから部屋に戻るとさっきまでと同じように布団に並んで座った。そして慰めのリズムで頭や背中をゆるゆると撫でてもらっているうちに、いつの間にか眠りに落ちていた。

そんな夢だった。
もしこれが夢ではなく現実のことだったとしたら、振り返るだに間が悪い。しかし、仮にそうだったとしたら、むしろ私は葵さんにそのような恥ずかしい一面を初恋のはじめから知られていたのだから、むしろ気が楽ともいえた。

そしてありがたいことに、彼女はそんな程度のことで私を避けたりするような人ではなかったはずだから。
ぼんやりと、晴天の光の中から吹いてくる、まだ少し冷えた風がそよそよと感じながら、コーヒーを冷ましつつ飲んでいると、電話が鳴った。出てみると大森だった。

彼と話すのはほとんど一年ぶりだった。
「久しぶりだな」
彼はまるで先週も会ったばかりかのような平然とした口ぶりで、そう言った。
「今日、暇?」
どうせ暇だろ、と高を括っている大森の薄笑いの顔つきが、目に浮かぶようだった。

私の土曜日の休日がどれだけ貴重か、ちっとも理解していないのだ。
「タイミング良い男だな相変わらず」
とはいえ、私もつい笑いまじりでそう言った。

待ち合わせは新宿になった。休日に人に呼び出されるなどずいぶん久しぶりなので、どこか浮き足立ち、そしてもう長い間そんな感覚を忘れていたことと、その相手が大森であることに、我ながら苦笑してしまう。

大森は、大学時代の友人だった。以来、卒業して十年近くたっても、こうして年に数回会う程度には、交流が続いていた。

大森が待ち合わせに指定してきたのは、新宿の裏通りにある喫茶店だった。道を渡って少し行けば、ホテル街に紛れ込む、新宿の明るく賑やかな活気と、それとはまた少し違う表情との間、ちょうど絶妙な一画にある店だ。

その店には学生時代よく通ったものだった。当時は場所柄もあってか、二十四時間営業していたから、飲みに行くときの待ち合わせや食事の後だけでなく、夜更けでも早朝でも、とにかく使い勝手が良かったからだ。

特に真夜中の、明るい店内に漂うくたびれた、どこか哀しい空気が私は好きだった。そんな憩いの喫茶店も、何年か前には二十四時間営業をやめてしまったのだが。全く儚いことである。

年季の入った木枠のガラス戸を押して店に入ると、大森は先に来ていた。奥の四人がけのテーブルで、コーヒーとプリンアラモードを食べているところだった。英国調の調度で設られた店内と、シルバーの器に盛られたプリンアラモードという組み合わせは悪くない風情を醸し出していた。

もちろん、それをスプーンで嬉しそうに口に運んでいるのが三十半ばの大森だ、という点を除けばだが。
ドアの鐘の音に顔を上げた大森が、口に入れたプリンに表情を緩めたまま、軽くこちらに手を振ってきた。つい私も表情を緩めて片手で応じ、そちらへ向かう。

水を運んできてくれたウェイターにピラフとコーヒーを頼んだ。この店のピラフは、十年前と変わっていなければ、冷凍のものをレンジにかけ、それをフライパンで軽く炒めるだけだから、さほど待たずに出てくるのだ。

学生時代、この店でバイトしていた女に教えてもらったのだった。もっとも、その子が嘘を言っていたかもしれないが。
「悪いな、急に呼び出して。断られるかなあ、と思ったけど来てくれてよかった」

大森は柄の長い銀のスプーンでプリンのホイップが乗った部分をすくってそう言った。正面から見ると、一年前に会った時より痩せたようだった。
「別にいいよ。ていうか、お前ちょっと痩せたんじゃない?」
「前に会ったのっていつだっけ。ちょうど一年位前か。まぁそうだな。酒もやめてだいぶ経つし、休みの日に河川敷走ったりしてるからな」
「ああ、そうなの。そうか、そういえば、去年も酒やめてたっけ」
「そうだよ。でも三崎は全然変わらないな」
「変わり映えのない生活してるからな。やめてからもう何年くらい経つんだっけ」
こんなふうな、当たり障りのない会話は久しぶりだった。それで、一気に気が緩んでいった。

「三年だな。まあ、それはそうとさ、三崎、彼女とかいないの?」
「いないよ。仕事も忙しいし、なかなか出会いもないしなあ」
「そうか。まあ、俺らの歳になってくると、なかなか現実はそうだよなあ」
と今度はプリンとバナナを口に運ぶ大森。
「ていうか、大森って昔から甘いもの好きだっけ。今度は糖尿になるんじゃないの」
「ならないならない。ちゃんと気をつけてますので。彼女もそういうの気をつけて料理してくれたりしてるし。ああ、そういえば言ってなかったっけ、俺、今同棲してるんだよ」
どうやらこれが言いたくて私を呼び出したらしい。大森はそんなはにかみを浮かべていた。
「へえ、よかったな。いつから?」

「先月から。付き合ったのは半年位前なんだけどな。前に通ってた禁酒の集いで知り合ったんだよ」
大森は二十代の半ばに、一度酒で身を持ち崩していた。その時のことだろうか。
と、ちょうどそこで、ピラフが運ばれてきた。昔と比べると、少し時間がかかったような気がする。冷凍ではなくなったのか、それとも、そもそもあの女の子の冗談だったのだろうか。

「三崎は? いい人いないの?」
ピラフの一口目をスプーンですくいかけたところで、大森にそう遮られた。
「ほら、昔いたじゃん。大学の時、俺も何回か会ったことのある、年上の、お前の地元の、髪の長い」
「葵さん?」
「ああ、そうそう、葵さん」
「よく覚えてるな」
「好きだって言ってたじゃん。卒業してからもちょいちょい会ってたんだろ」
「まあ。でも、実はだめだったんだ」
私は極力何でもないふうに言って、ピラフを口に運んだ。

この店で最後にピラフを食べたのは、もう五年も昔のことだった。その時はたしか、まだ二十四時間営業をやっていたのだったか。
味が昔と変わっているのかどうかなんて、さすがに覚えていなかったし、思い出せそうもない。それに、そもそもピラフの味なんて比べて何になると言うのだろうか。

「じゃあ、ほら。みどりちゃんは?たしか三年ぐらい付き合ってたじゃん」
黙ってピラフを食べる私に、大森は気にせずにそう続けた。
「二年と九ヶ月。十年も昔の二年か三年なんて、もう何も意味ないでしょ」
私は口の中のピラフのバターの風味に意識を向けながら、そう言った。

大森は鼻からそっと息を吐いて、少し残念そうに笑った。
「俺だって今の彼女とは、まだ半年しか付き合ってないよ」
どこか慰めと励ましの響きのある言い方で大森はそう言い、いよいよプリンアラモードを平らげにかかった。

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