前略,11
「改めて言われると言いにくいな」
と、大森は苦笑して、ピラフを平らげにかかった。空になった皿をテーブルの端にやると、大森はコーヒーをすすった。私もコーヒーに口をつけて、彼の言葉を待った。
どんな話を切り出そうとしているのか、見当もつかなかった。
「この前、本当は話そうと思ってたんだけど、なかなかタイミングがつかめなくてな」
「お金にでも困ってるのか」
「違うよ。実はさ、結婚しようと思ってるんだ」
「へぇ」
意外だったが、不思議と驚きはしなかった。
「この前言ってた彼女?」
「そう。桜子っていうんだ、おれより六歳年下なんだけど」
「そうか。よかったな。とは言えわざわざ報告なんて、改まってるな」
私は軽口のようにそう言いながらも、ほんの少し、寂しいような気がした。
「いや、ほら。三崎は数少ない友達だからさ。おれがアルコールに溺れていた時も、あまり態度を変えないでいてくれただろ」
「まあ、どう態度を変えるべきかもわからなかったから」
「あれには、やっぱり救われたよ。ありがとな」
「改めて言われると、なんか恥ずかしいな」
三十路も半ばのいい大人が向かい合って、それぞれはにかんでいる図というのも、はたから見ればシュールだろうな、と思った。大森が通りかかったウェイトレスを呼び止め、コーヒーのおかわりを私の分も注文した。
「結婚するって、もう親には?」
「一応言ったよ。まあ、うちは兄と妹がしっかりしてるぶん、今更おれの事なんて興味ないって感じだったけどな」
「そんなことないだろうに」
大森の実家は、横浜の外れにあるお寺だった。けっこうな歴史のある浄土真宗のお寺で、私たちが二十代の頃には、もう大森の兄が跡を継いで住職になっていた。
私も何度か訪れたことがあったが、植木の手入れも行き届いた境内が広がっていて、昨今の例にもれず檀家不足に悩んでいると本人の口から聞かされたり、実際に夕食をご一緒させてもらったりしていなければ、さぞ見入りのいい家業だろうと羨む人がいても、何ら不思議ではないほど、立派なお寺だった。
もっとも、少なくとも地元では名家として扱われていたようだったし、大森の兄は家を継ぐために仏教系の大学に入り、妹は東京大学、大森も私と同じで恐縮だが、都内の難関私立を出ているのだから、実際、地元で名家と呼ばれるのも無理はない話だった。
大学生の頃、大森の部屋に麻雀をしに行った時に会いに行ったきりだが、兄も妹も、ご両親も大森に似て気さくな人たちだった。
ただ、そうした環境で育ったことが、まるで真綿でじわじわと呼吸を塞がれていくようなストレスを、大森に与えていたのかもしれない。おそらくは、本人も気づかないうちに。
それが原因あるいは遠因となって二十代後半に大森が酒に溺れたとしても、やはり無理はないように思えた。もちろん、だからといって同情すべきかどうかというのは、また別の問題だったが。
「ともかくいい人が見つかってほんとによかったね。おめでとう」
「ありがとう」
運ばれてきたホットコーヒーにミルクを垂らし、その白い線がコーヒーに混ざってぼやけていく様子を確かめ、大森は視線を上げた。
「会う?」
「会う、とは?」
「桜子と」
自分でも突拍子のないことを口にしているとわかっているのか、大森はそういう笑いを浮かべていた。
「桜子に三崎のことを話したら、会わせて欲しいって言っててさ。おれも、お前に紹介したいし」
「それはいいんだけど、いつ?」
「今でもいいか。実はすぐそこで待ってるんだ」
「なんだそれ。バラエティー番組みたいだな
呼んでいいか、と問われれば断る理由などなかった。
すぐそこ、と言うから、近くの店で待機しているのかと思った。
大森が、私の返事でうれしそうにうなずいて、携帯電話を耳に当てた。
すぐに桜子さんが出たらしく、三崎、会ってくれるってさ、うん、と短いやりとりをして、通話を終えた。
「桜子さん、どこで待ってんの?」
「え? すぐそこだよ」
と、大森がいたずらっぽく笑みを見せたのと同時に、フロアの反対側のテーブル席の女性が立ち上がるのが見えた。こげ茶色のカーディガンに、腰まである黒い髪をポニーテールにしているその女性は、ウェイトレスを呼び、明らかに私たちのテーブルを示して何か言うと、ハンドバックとコーヒーのカップを持って、迷いのない足取りで私たちのテーブルにやってきた。
きれいな立ち姿だと思った。涼しげに通った目鼻立ちに、どこか少女のような爛漫さを留める顔は、なぜか学生時代のみどりを連想させた。顔立ちは似てはいなかったが、雰囲気と言うのか、佇まいから醸し出されるものが、どことなく似ていたのだ。
「はじめまして、三崎さん。桜子といいます。いつも大森がお世話になっています」
明らかに年下のはずが、桜子さんは落ち着いた口調でそう言うと、私に向かってお辞儀をした。思わずはっとさせられるほどのお辞儀だった。私も立ち上がって挨拶を返した。
桜子さんと私が腰を下ろすと、桜子さんの隣で大森がいかにも照れ臭そうにコーヒーをすすった。
「ほんとにすぐそこじゃねえか」
私が思わずそう言うと、だからすぐそこって言ったろ、と大森は得意げに笑った。
「わたしはさすがに他の場所で待ってたほうがいいでしょと言ったんですけど」
桜子さんも恐縮半分、という感じで笑っている。くしゃっと笑う表情がなんとなく似ているように見えた。
大森と桜子さんは、以前大森が通っていた禁酒セミナーで知り合ったらしい。桜子さんは自分が禁酒するためにセミナーに通っていたわけではなさそうだったが、込み入った事情を訪ねるのもはばかられた。大森とは長い付き合いとは言え、今日会ったばかりの桜子さんにあれこれ聞くことはできない。
誰だって他人に話したくないことの一つや二つは持っているものだ。
籍は来月にでも入れるつもりだと言うが、結婚式を挙げるかどうかは、決めかねているようだった。
「わたしたち、式を挙げても来てもらいたい人って、そんなにいないんです」
桜子さんは、言い訳でもなければ自分に言い聞かせるわけでもなく、柔らかい微笑みをたたえて言った。
独身の、しかも恋人さえいない私には、そのへんの事柄について何を言うこともできない。
「おれも結婚したことがないから、式っていうのはよくわからないな」
そう正直に言うと、二人も笑ってくれた。
桜子さんは初対面でも話しやすい人柄だった。言葉の端々に、大森への信頼愛情のようなものがにじんでいたし、それが少しも嫌味に感じられなかった。佇まいも、ユーモアと礼節がごく自然と身についている人のそれだった。
どのような人生を過ごしてきたのか、単純に興味がわいたが、ただ、それを問うのをためらわせる何かもまた、彼女の佇まいにはにじんでいた。
大森がお手洗いに立った時、桜子さんはふとこう言った。
「三崎さん、これからも彼と友達でいてください。できれば、わたしも三崎さんと仲良くできたら嬉しいです」
「もちろん。桜子さんは、あいつのことが本当に大切なんですね。いい人が見つかって、よかった」
「はい。もう一度生まれ変わっても、わたしはあの人と巡り会いたいです」
聞いているこちらが赤面したくなるようなセリフを、桜子さんは何のてらいもなくさらりと口にした。そしてすぐに表情を赤らめて、片手で頬を仰ぎ始めた。
「三崎さんにはいませんか、そういう人」
赤面をごまかすような軽口の口調で、桜子さんはそう言って笑った。
私も笑って何か答えようとしたが、とっさに言葉が出てこなかった。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?