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前略⑩

お酒が入っていたこともあって、気が緩んでいたのは確かだった。エジンバラの前を通りながら、みどりの事は思い浮かばなかったのだ、まったく少しも。

キスといっても、幼稚園児がじゃれつくように、軽く唇を重ねただけだった。とは言え、そんなのは言い訳にもならない。

キスをして、互いに微笑みを浮かべかけたところで、
「何してるの」
という声が聞こえた。トゲのあるその声に振り向いてみると、エジンバラの制服を着たみどりが立っていた。驚きと怒りの浮かんだ表情が、店のネオンの光に照らされていた。

無視をするなり、他人のふりをするなりして、ホテルに向かうこともできたのかもしれない。けれど、私はとっさに言葉も見つからず、立ち尽くしていた。
一緒にいたコンサル会社勤務のお姉さんは、持ち前の聡明さで、すぐに何かを察したらしい。

「このあと、そういえば用事があるの忘れてたから、先帰るよ。ナギくん、バイバイ」
彼女は一瞬のためらいも見せず、すっぱりとそう言うと、毅然とした足の運びでJR新宿駅の方へと立ち去っていった。姿が見えなくなるまで、彼女は迷いのない足取りのままだった。きっと彼女はバリバリ仕事をこなせる有能な社会人なんだろうな、と私は彼女とのベッドの中での情事を思い描きながら、ぼんやりと思った。

みどりはまっすぐに、私を睨んでいた。みどりに見られてはまずい場面だったとは、わかっていた。とはいえ、正直なところ、みどりがどうしてこんなに悲しそうな怒りをあらわにしているのか、という疑問が一瞬頭をかすめもしたのだ。葵さんに彼氏がいたこと、そしてあっけなく失恋して悲しみに浸りたいのは私の方だった。しかも、もう何度も肌を重ねているというのに、みどりが自分のことを話してもくれず、そのせいで孤独はますます募り、余計に悲しくなったというのに。

「ねえ、何してるの」
みどりはコンサルお姉さんが消えていった雑踏を見てから、またすぐに私に視線を戻した。
「ていうか、今の人、誰。葵さんじゃないよね?」
通り過ぎる人々が面白おかしくちらりと一瞥していくこともお構いなしに、みどりは私に詰め寄った。

「ええと」
言葉を探してはみたが、何も思い浮かばなかった。
「今日は、いつものピアスしてないんだね。銀の輪っかの」
「はあ? バイト中だから外してるだけ。ていうか今それ、関係ある?」
「ないですね」
「ちょっと、こっちきて」
みどりはこれ見よがしにため息をついた。それから、私の手首を掴んで、有無を言わさぬ勢いで、店の裏口がある路地に連れて行った。通りを歩く人たちからはほとんど死角になっていて、暗がりになっている路地をわざわざ覗き込まないと、こちらの姿は見えないような、路地というよりは隣の雑居ビルとの隙間、と呼んだほうがいいような狭い空間だった。

壁沿いにいくつも並んだ生ごみを入れておくための水色のポリバケツの間に、みどりは私を促すと、体をくっつけてきた。
ハグでもされるのか、と油断しかけた瞬間、力いっぱい押され、無理矢理ポリバケツに腰かけさせられた。

「どうしたの?」
さっきからずっと黙っているみどりに、私はようやく怯えはじめた。みどりは、私の問いには答えず、私の脚の間に立つと両手で私の腰のあたりに押さえつけるように体重をかけてきた。すぐ目の前にみどりの顔を寄せ、まっすぐに目を見つめていた。

「さっきの女の人、何?」
「えっと。説明するのは難しいんだけど」
言葉を探していると、乱暴に髪の毛を掴まれた。痛い、と抵抗するより先に口が塞がれた。歯が当たるくらいには乱暴なキスだった。みどりが舌を入れてきたので、目を閉じて応じた。髪が掴まれたままだったけれど、さほど気にはならなかった。

結構な時間、もしかすると数分以上はそうしていたと思う。髪が掴まれている感覚がなくなった、と思ったら、みどりの手が私のズボンのベルトを探っていた。生ごみのポリバケツの上で交わる趣味はなかったから、止めようと手を伸ばしたが、その手はみどりの腰に誘導された。その拍子にみどりが体重をかけてきて、私はとうとう体勢を崩してしまった。上半身が後ろに倒され、別のポリバケツの取っ手に頭をぶつけた。

「ごめん、大丈夫」
痛みにうめいた私に、みどりははっとして心配そうに言った。二人とも、すっかり呼吸が乱れていた。
「大丈夫」
「よかった」
みどりは完全に火照った表情をしていたが、そこで、自分が怒っていたのを思い出したみたいに、またまなざしに厳しさを込めると、再びベルトを外そうとしてきた。

「みどり、ちょっと待って」
「なんで」
きっぱりと拒絶する口調でみどりは言った。が、ポリバケツに倒れ込んでいる体勢である以上、私の協力なしには脱がせようがなかった。
「さすがにここではちょっとさ。みどり、バイト中だし」
どうにかなだめようと言葉を選んだつもりだったが、みどりはベルトから手を離すと、ひどくショックを受けた表情で私を見下ろした。

「ナギサくん、最悪だね」
みどりの体が離れたおかげで、ようやく立ち上がることができた。立って向かい合うと、彼女は今にも泣きそうな目で見上げてきた。
「みどりのバイトが終わるまで待っててもいいかな」
「なんで?」
「話したいんだ」
私は試しにそう言ってみたが、それが正解だったらしい。みどりは制服のスカートのポケットから鍵を取り出して、私に押し付けてきた。

「先、私の家行ってて。あと三十分位で上がるから」
私は素直に鍵を受け取って、バイトがんばってね、と頭を撫でた。当然のようにみどりは私の手を振り払って、一言もなしに裏口から店に戻っていった。

この一件のおかげで、私たちの関係は一歩前に進んだように思う。この後、みどりの家で、私たちはきちんと話をすることができた。みどりは私の女癖を責め、その弁明として、私は抱えていた心情を打ち明けることができた。
そして話の最後に、みどりは、しばらくためらってから、何度か深呼吸をし、それから小さくうなずくと、彼女の来歴について、話しはじめてくれた。

その話の中で、彼女がいつもつけている銀色のフープピアスは、もう何年も前に亡くなったお兄さんからのプレゼントだったと知った。
すべての話が終わり、付き合って欲しい、と私が告白した時点で、私たちが肌をはじめて重ねてからようやく一ヵ月半が経とうとしていた。


また大森から連絡があった。ついこの間会ってから、まだ二週間しか経っていなかった。とはいえ、これといった用事もなかったから、また土曜日の昼間、新宿で会うことにした。
エジンバラに入ると、大森はまたしても先に来ていた。今度はピラフを食べているところだった。

私の姿に気づくと、口をもぐもぐと動かしながら、片手を上げて手招きしている。
「悪いな、三崎この前の今日で呼び出して」
大森は残っていたピラフの最後の一口を食べ終えると、一口でアイスコーヒーを半分ほどすすった。

「いや、別に大丈夫。それより、珍しいな」
「そうか? 結構好きなんだよ、ピラフ」
「そうじゃなくて。また連絡してきたから、何かあったのかと思った」
「ああ、そっちね」
大森はとぼけているのかいないのか、のんびりとコーヒーをすすりきると、ちょうど私のお冷とおしぼりを運んできてくれたウェイトレスにコーヒーのお代わりとを頼んだ。

「三崎は? コーヒーだけでいいのか」
 うなずこうとしたが、せっかくなので、アイスクリームも頼んだ。朝食を中途半端な時間に摂ったせいで、昼食をとりそびれていたのだ。

「それで?」
運ばれてきたアイスを一匙口に運んでから、言ってみた。大森は、なんとなくバツが悪そうにへらへらしていた。
「それで、とは?」
「この前話しそびれたことがあったんじゃないの」
「悪いな。実はそうなんだよ。単刀直入に言ってもいいか」
「どうぞ」

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