三島由紀夫という迷宮② ダンヌンツィオに恋をして 柴崎信三
〈英雄〉になりたかった人❷
毎年師走が近づくと、半世紀前の〈あの日〉の市ヶ谷台を包んでいた異様な熱気と興奮を思い起こす。
現場に到着した時、上空ではまだ取材ヘリの爆音が響いていたが、すでにことは終わっていた。バルコニーに立った三島由紀夫の最期の演説を聞いた自衛官たちは三々五々前庭から立ち去り、東部方面総監室の前の壁面に〈楯の会〉の檄文の幟が垂れ下がって、晩秋の午後の光を浴びている。屋内の禍亊が嘘のような、秋晴れの爽やかな日であった。
三島が戻った総監室で何が起き、どんな結末を迎えたかは、すぐに明らかになった。午後、駆け出しの記者が指示されたのは、現場からほど近くに住む評論家、江藤淳を訪ねて、ノーベル賞候補にもあがった戦後文壇の寵児の奇怪な自裁劇の意味を問うことである。江藤は当時37歳、米国留学から戻って『成熟と喪失』など、戦後文学への鋭利な批評が瞠目されていた頃だ。
江藤の住むマンションは、三島が自裁した陸上自衛隊市ケ谷駐屯地から直線で数百メートルほどしか離れていない。事件から数時間しか経過していないのだから、〈乱〉の空気はまだ生々しくその場まで漂っているのだが、翳り始めた冬日が射す居室の江藤はほとんど動じる気配もなく語り始めた。
〈三島さんが『仮面の告白』で華やかに登場した戦後の焼け跡の時代は、彼にとって居心地の悪い時代だったはずですが、それが『金閣寺』をはじめとする名作を生んだ。しかし、日本の復興と成長が進んだ1960年ごろを境に彼は「美の極致」としての日本の復活へ向かって、にわかに行動家の道を走り出した。その究極が今日の事件です。なにがそうさせたのか。私は戦後の精神の空洞に耐えられなかった彼に同情することはできません‥‥〉
夕刻、メディア報道はますます高じて事件の火照りは続いた。江藤は淀みのない冷静な語りのなかで、三島由紀夫という45歳の作家の鍛え上げた肉体に隠されていた、甘美な〈死〉への衝動を見通していたのだろうか。
いまとなってみれば、何よりも奇態なのは「憲法改正による自衛隊の国軍化」や「天皇を中心にした日本の伝統文化を守る」という政治目標を掲げてクーデターを目指しながら、蹶起に失敗した三島と同志の切腹による自裁があらかじめ究極の目標のように周到に計画されていたことである。
戦後25年を経た冷戦体制の下、高度成長の坂道を上る日本にあって、2・26事件を小さくなぞったようなこのクーデター計画はそもそも荒唐無稽であり、現実の政治論としてはほとんどナンセンスにひとしい。そうであれば、これは自ら設えた「劇場」の舞台で割腹し、同志の青年の介錯で自決を完結させるという、作家が渇望した悲壮な〈自己犠牲〉の儀式こそが目的であり、改憲や天皇制云々の政治的主張はそのための舞台の書割でしかなかったのであろう。
〈蹶起〉にいたるまでの5年間の三島の「助走」をたどってみる。
1965(昭和40)年 2・26事件に取材した映画『憂国』を制作・主演。
1966(同41)年 ガブリエレ・ダンヌンツィオ著『聖セバスチァンの殉教』を一年がかりで池田弘太郎と共訳、出版。『英霊の声』発表。
1967(昭和42)年 「『道義的革命』の論理-磯部一等主計の遺稿について」。陸上自衛隊に体験入隊。民兵組織の試案作成。航空自衛隊百里基地でF104戦闘機に試乗。
1968(昭和43)年 大島渚と『ファシストか革命家か』で対談。「楯の会」正式結成を発表。「文化防衛論」。川端康成がノーベル文学賞を受賞。
1969(昭和44)年 「北一輝論 『日本改造法案大綱』を中心として」。5月13日、東大教養学部で全共闘学生約1000人と公開討論。
1970(昭和45)年 「果し得ていない約束-」で日本の将来について「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」と記す。そして自決。
2・26事件にからんだ著述、自衛隊への体験入隊や私兵組織「楯の会」をめぐる動きが日増しに錯綜する。そのなかで際立っているのは、イタリアの詩人で劇作家のガブリエレ・ダンヌンツィオによる聖史劇『聖ゼバスチァンの殉教』の翻訳に傾けた、この時期の三島の激しい情熱である。
その高揚はどこからやってきたのか。
ローマ時代末期の殉教者、セバスチァンを描いたグイド・レーニの殉教図に、若い日から三島は強い憧れを寄せていた。それを舞台化して圧倒的な評判を得たダンヌンツィオの戯曲は、当時仏語版しか入手できず、得手でない三島は仏文学者の池田弘太郎の協力を仰いで、翻訳の共同作業に入る。フランス語の基礎から始めて1966(昭和41)年夏の翻訳の完成までの一年余りに及ぶ歳月は、何かが憑依したような悪魔的とも呼ぶべき時間であったらしい。池田の回想によれば、当初「三島は、まだ、十分にアポロン(理性的)であった」が、翻訳の完成後は日ならずしてそれがディオニューソス(激情)的な情念で満たされていった、と述べている。
三島はこの翻訳を通じて歴史のなかで聖化された殉教者の偶像を探っただけでなく、わが身を〈セバスチァン〉というモデルと同一化させる自己愛の〈鏡〉に見立てて、そこにあの演劇的な自裁へ向けた舞台装置の構想を得たのであろう。同じ年、この殉教伝説を描いたグイド・レーニの名画の中のセバスチァンに扮して、裸体に矢を受けて苦悶する姿を細江英公の写真集『薔薇刑』や篠山紀信の写真に撮影させていることでも、それは想像できる。
4年後の〈蹶起〉へ坂道を駆け上る作家に渦巻いた、この鬱蒼としたエロスとタナトスの衝動は、やがて深い歴史の暗喩となってあらわれる。
三島が訳した『聖セバスチァンの殉教』の作者、ダンヌンツィオは早熟な才能にめぐまれ、20世紀の初頭にかけて『快楽の子』や『死の勝利』など、華麗なレトリックの小説や詩で国民から高い人気を集めた。そのかたわら、第一次大戦期のファシズム運動の指導者として現実の政治にもかかわり、イタリアの領土回復にヒロイックな役割を演じた。
自ら制服を身に着けて「司令官」を名乗り、組織した軍団を指揮してイタリアの未回収の領土である現クロアチア領のフィエーメを連合国から奪回、イタリア国民は英雄としてこの作家に喝采を送った。政治手法などで独裁者ムッソリーニとの浅からぬかかわりも認められている。
煌びやかな文体は華麗でデカダンスの香りが漂い、国粋的な政治家としての行動は奇抜で情動的であり、くわえて女性遍歴などスキャンダラスな私生活の褒貶に包まれたその経歴は、生きた時代と場所の違いを超えて、三島由紀夫との〈二卵性双生児〉を思わせる著しい親近性を、今日に伝える。
自決へ向かう三島が憑かれたように翻訳に没頭したダンヌンツィオの『聖セバスチァンの殉教』の主人公、聖セバスチァンはローマ末期のキリスト教の殉教者で、三島の文学的な出自と深くかかわっている。
セバスティアン、またセバスティアヌスは3世紀ごろのローマで、ディオクレティアヌス帝のキリスト教迫害に抵抗して殉教し、のちに聖人に列せられた人物として、歴史に刻まれてきた。キリスト教の信奉を棄てないセバスティアヌスに帝は弓矢による死刑を命じ、射手たちは柱に縛られた彼に弓を放つが、それでも死には至らない。
そう歌ったセバスティアヌスは、皇帝に殴打されたあげくに殉死する。
三島は『聖セバスチァンの殉教』のあとがきにこう記した。
縛られた体に矢を受けたセバスティアヌスの裸像は、殉教した聖人の悲劇的伝説としてボッティチェッリやマンテーニャ、グイド・レーニ、エル・グレコ、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール、ギュスターブ・モローなど、古来多くの画家たちが図像化した。殉教者としてばかりでなく、矢を体に受けても死ぬことがないという寓意から、戦場へ向かう兵士やペストの流行、そして同性愛者の守護神としても社会に受容されてきた。それはこの聖人が、歴史のなかで演じてきた文化表徴と神話作用の広がりを示している。
ダンヌンツィオが聖史劇とうたう『聖セバスチァンの殉教』を書いたのは1911年である。それまでの放縦な生活で負った巨額の債務をかかえてフランスへ逃れ、そこで出会った作曲家のクロード・ドビュッシーと意気投合してできたのがこの音楽劇である。初演でユダヤ系の女優のイダ・ルビンシュタインが演じたセバスティアヌスは、その両性具有的な演技が大きな喝采を浴びたが、カトリック勢力は激しく反発し、パリ大司教はこの作品の観劇を禁止する。20世紀の歴史の文脈に置いてみても、この作品はスキャンダラスであり続けた。〈セバスチァン〉は賛美と偏見のなかを生き延びてきた。
〈セバスティアン・シンドローム〉の波は20世紀の極東日本にも押し寄せる。三島が〈セバスティアン〉と出会うのも、少年のころ自宅にあった西洋画集でグイド・レーニの『聖セバスティアンの殉教』を見たときだった。
初期の小説の『仮面の告白』は三島が少年期に同性愛への傾斜を強く意識して、その〈ヰタ・セクスアリス〉(性的来歴)を告白した出世作として知られる。矢の刺さった殉教者セバスティアンの裸像を見る場面である。
13歳の主人公が父親の外国土産の画集を繰っているうちに、グイド・レーニの絵画『聖セバスチィアンの殉教』に遭遇し、逞しい裸体に矢を放たれた青年が苦痛と歓喜に任せる画面の姿に激しい性的興奮を覚えて、初めて自涜を経験する。
レーニの〈セバスティアン〉像は、いわば若い三島由紀夫の性的アイデンティティーについての戸籍謄本にほかならない。しかし、のちに45歳で演劇的な自裁を遂げるこの作家は、今度は自らの死の儀式の「台本」として、ガブリエレ・ダンヌンツィオが同じ題材で書き上げ、三島自身が憑かれたように翻訳した聖史劇『聖セバスチァンの殉教』を選ぶのである。
〈セバスティアン〉像を通してこれほど深く作家に刻印されていたダンヌンツィオの名前は、それまでの三島の夥しい戦後の著作や論述のなかで、なぜか慎重に避けられてきた。「ファシスト詩人」という禁忌がダンヌンツィオの名を戦後の三島から遠ざけたとしても、これは謎というほかはない。けれども、自ら「悲劇」を演出することで45歳の生涯を閉じた鬼才の文学的な起点と終点に〈セバスティアン〉という殉教者の苦痛と歓喜に彩られた肖像があったことの意味は、決して小さくはない。
ダンヌンツィオは、日本の近代文学の歴史のなかでも多くの作家たちによって早くから紹介され、参照されてきた。森鴎外が翻訳した戯曲『春曙夢』と『秋夕夢』は、この作家の名前を日本に伝える先駆けであったろう。
上田敏は西欧の近代詩を選りすぐって翻訳、集成した詩集『海潮音』の冒頭に、ダンヌンツィオの『燕の歌』などの2編を掲げた。
弥生ついたち、はつ燕
海のあなたの静けき国の
便もてきぬ、うれしき文を。
春のはつ花、にほひを尋むる。
あゝ、よろこびのつばくらめ。
黒と白との染分縞は
春の心の舞姿。
(ダンヌンツィオ『燕の歌』上田敏訳)
燕が運んでくる早春の喜びが、文語体のゆかしい香りをとどめた日本語の定型の韻律を通して伝わる名訳で、イタリアの愛国詩人の名はこの国でも広く知られるようになった。
夏目漱石は『それから』のなかでダンヌンツィオに触れている。
主人公の代助と友人の平岡、そしてその妻で資産家の娘の三千代が織りなす、20世紀初めの日本の「高等遊民」の三角関係を主題にしたこの小説のなかで、漱石はダンヌンツィオの「青い部屋」と「赤い部屋」という精神の棲み分けを通して、不安な近代人のこころの揺らぎを探ったのだろうか。
漱石の弟子の森田草平もダンヌンツィオの『死の勝利』に影響されて懐疑思想の虜になった。「新しい女」と呼ばれた女性解放運動家の平塚らいてう(明子)と情死行を企てて失敗、その顛末を小説『煤煙』に描いたが、そこでもダンヌンツィオの作品からの顕著な影響が指摘されてきた。
華麗な文藻の詩人にして演出家、そしてファシストの軍人という多彩な顔を持ったダンヌンツィオの名前と作品は、世紀末のデカダンスと浪漫的なあこがれを伴って日本でも多くの作家たちや読者に迎えられたのである。
イタリアの現地でダンヌンツィオの影響を直接受けた日本人に、詩人で作家の下位春吉がいる。ダンテ研究者の上田敏の影響を受けてイタリアに留学し、ナポリ東洋大学に学んだ。研究のかたわら日伊文化交流にかかわった。、柔道を教え、のちにはイタリア軍に入隊した。ダンヌンツィオが〈司令官〉を名乗って、アドリア海に面した海港都市フィウーメの奪回に〈蹶起〉すると、下井は義勇軍として現地に入り、この耽美詩人にしてファシストの司令官のもとで蹶起部隊に加わった。
「続いて私もフューメ決死隊に入って一番乱暴な中隊で知られた第一小隊第一分隊ダヌンツィオ軍曹の率いる一番初めの隊となった」。帰国後のこのような武勇伝がどこまで真実かはわからないが、ムッソリーニとも親密な関係を持ち、ファシズムの礼賛者となって枢軸同盟国となるイタリアとの往来を重ねている。
第一次大戦中に志願して航空兵となり、事故で片目の視力を失っているダンヌンツィオは飛行マニアでもあった。1918年8月には戦闘機中隊を率いてローマとウィーンの間700マイルの往復飛行を行い、プロパガンダ用のビラをまいた。それは「詩の爆弾」と呼ばれた。イタリアのニッティ政権はダンヌンツィオを使ってローマ―東京間の飛行計画を企画し、下位はその協力者となった。
フィウーメの占領と重なり、当初飛行に参加を予定していたダンヌンツィオ自身はこの飛行から外れたが、それは1920(大正9)年5月、イタリア陸軍航空隊のアルトゥーロ・フェラリンら4人によって実現した。約3か月半をかけて欧州、中東、アジア各地を飛行しながら転々と着発を繰り返して、5月31日にようやく二機の複葉機アルサンドが東京・代々木練兵場に着陸した。待ち受けた首相の原敬はじめとする政府要人や、集まった群衆から大きな歓声が一斉に1わきおこった。
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ダンヌンツィオは第一次世界大戦が終結した1919年9月、イタリア軍から離脱した186人の反乱兵を率いてクロアチアの海港都市、フィウーメへ進軍した。かつてのオーストリア=ハンガリー帝国の一部でイタリア領であったこの都市の帰趨について、パリで戦勝国が協議するさなかであった。
現在クロアチア領のリエカと呼ばれるこの町は、アドリア海に臨んだ風光明媚な港町で、もともとイタリア系の住民が多いことから、第一次大戦への参戦に際してイタリアはフィウーメの割譲を条件とした。しかし、大戦終結のあと、米国の大統領ウィルソンが民族自決を楯にこれに反対、クロアチアはセルビア人を中心とした「ユーゴスラヴィア王国」への帰属を選び、フィウーメは連合国軍の管理下におかれた。抗争はそこから生まれた。
9月11日朝、ダンヌンツィオは軍服姿でヴェネツィアの住まいを出発し、フィウーメ奪回へ〈蹶起〉に旅立った。若い恋人のピアニスト、ルイーザ・バッカラにあてて「昨日は熱が三十九度もあった。今朝は下がった。だが出発する。さようなら」と手紙を書いた。ファシスト党のベニート・ムッソリーニには「我々の大義を精力的に支援せよ」と書き置いた。
著名な詩人とはいえ、すでに軍務を離れたいわば非正規の民兵の司令官が部隊を率いて進軍する。古い軍装の胸には勲章をつけた司令官は、途中のメストレで真赤なフィアットのオープンカーに乗りかえた。
連合国の正規軍が道を開け、反乱兵が道々この進軍に加わっていった。フィウーメの町が近づくと、ダンヌンツィオは装甲車の上に立った。「フィウーメか死か!」という連呼が、行進する部隊とそれを取り囲んだ群衆の双方から沸き上がった。装甲車やトラックの隊列が町の中に入ると、女性と子供たちは月桂樹の枝を振り回して熱狂は極まっていった。
イタリア軍で構成された連合国軍は「ダンヌンツィオを阻止し、必要なら殺害せよ」と指令していたが、正規軍から兵士が次々と加わり、フィウーメに到着するころ反乱軍は2000人ほどに膨れ上がっていたといわれる。
「フィウーメか死か!」
こういう紋切り型の殺し文句はファシストの常套手段ではあったが、民衆は熱狂して、フィウーメに入城したダンヌンツィオは〈英雄〉であった。
司令官邸にあてられたハンガリア知事公邸のバルコニーに立った軍服姿のダンヌンツィオは、集まった群衆を前に連日のように演説した。それは軍装姿の三島由紀夫が民兵組織の「楯の会」のメンバーを率いて東京・市ケ谷の陸上自衛隊東部方面総監部のバルコニーに立ち、集まった自衛官を前に演説した1970年11月25日の光景におそろしく似ていたはずである。
「今こそは美の始まるときである」
「戦争によって疲弊し、くすんだ世界全体が幻惑されるような国家を創造しつつある」
「フィウーメは惨めさの海の真ん中に輝く燈台である」
ダンヌンツィオの演説が伝える言葉は、ひとつひとつが〈詩〉であった。
バルコニーに立ったダンヌンツィオの言葉のように、反乱軍の占領下に置かれたフィウーメはそれからほぼ15か月の間、社会主義者やファシストはもちろん、インドやエジプトの民族主義者たち、さらには内外の麻薬密売人や売春婦がゆきかう、無政府状態の逸楽の都市となった。
ダンヌンツィオは小柄で風采の上がらぬ外見であったが、群衆を前にしたバルコニーからの演説は詩的で人々を陶然とさせた。つながりの深かった独裁者ムッソリーニが、ローマのヴェネツィア宮殿のバルコニーから群衆に向けて演説するのを好んだのは、この「フィウーメ進軍」を指揮した奇矯な詩人、ガブリエレ・ダンヌンツィオの影響ともいわれている。
13歳の時、グイド・レーニの『聖セバスティアンの殉教』の殉教図を見て自らを穢した少年、平岡公威が41歳になって、憑かれたようにダンヌンツィオが書いたその戯曲の翻訳に没頭したのは謎である。
卓越した愛国詩人であり、救国の軍人ファシスト、名パイロットであり、頽廃的なスキャンダルが絶えない作家―。伝説につつまれたこの人物が描く霊験劇『聖セバスティアンの殉教』は三島が生涯に伝える英雄的な〈行動者〉のモデルとして、その名を温め続けてきたテクストなのであろう。
作家の筒井康隆は『ダンヌンツィオに夢中』のなかで、三島由紀夫が戦後長らく〈ダンヌンツィオ〉の名を封印してきた理由をそう推測する。
自裁の4年前に驚くべき情熱を傾けて翻訳したダンヌンツィオの『聖セバスティアンの殉教』のあとがきでも、三島は著者のダンヌンツィオの名前に意識的と思える慎重さで、ほとんど触れていない。しかし、そこでは実在したかどうかもわからないこの殉教者の物語が〈神話〉として現代にまで生き続けている理由について、宗教史家のM・エリアーデの『永遠回帰の神話』を引用してこのように解いている。
異教的な古代世界を代表する皇帝と、キリスト教的新世界を代表するセバスティアンが対決するなかで、彼の異教的な美しさに次々と矢が撃ち込まれてその肉体はは滅びてゆく。
1970年11月25日正午すぎ、私兵部隊の「楯の会」の若者とともに闖入した東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部でバルコニーに立ち、自衛隊員へクーデターへの蹶起を呼びかけた挙句に果たさず自裁する三島の姿は、1919年9月12日未明にかのダンヌンツィオが反乱部隊とともにフィウーメへ入城し、司令部のハンガリア知事公舎のバルコニーから熱狂する群衆に向って「フィウーメか死か!」と演説した情景とほとんど二重写しになる。
歴史に映し出される場面には、現実がしらぬうちに過去を模倣することがないわけではない。それとも、そのバルコニーの〈蹶起〉は三島由紀夫がエリアーデの言うところの〈神話〉を意図して、ダンヌンツィオの意匠そのままに演出した演劇的な空間であったのだろうか。
=この項続く
◆標題図版 グイド・レーニ『聖セバスチァンの殉教』(油彩、カンバス 128×99㌢、ローマ・カピトリーノ美術館)