三島由紀夫という迷宮⑤ 金閣炎上と〈肉体改造〉 柴崎信三
〈英雄〉になりたかった人➎
日本研究者のドナルド・キーンは、〈日本的なもの〉といわれる美意識の源泉を室町幕府の八代将軍、足利義政の事績に求めている。応仁の乱の原因を作り、政治的にはほとんど統治能力を欠いた人物と今日では見られてきたが、銀閣(慈眼寺)を建立し、雪舟をはじめとする当時の画家たちを支援した。連歌や能楽の振興など「東山文化」を生み育てた〈文弱の王〉である。
「暗示」と「不均衡」と「簡素」、そして「果敢なさ」という四つの要素でそれは構成されている、とキーンは指摘する。確かに、義政の祖父の三代将軍、義満が北山の鹿苑寺の舎利殿を金箔で葺いた金閣の絢爛豪華な輝きと較べれば、義政の銀閣は障子や違い棚で自然を暗示させる、控え目で静寂な書院造の佇まいを特徴とする。応仁の乱を挟んで室町幕府の将軍三代に流れた時間が映しだす光と影が、そこにはある。八代将軍義政は応仁の乱の後の荒れた鹿苑寺にたびたび詣でて、焼け残った金閣の姿を眺めながら自ら造営する東山山荘の観音殿、銀閣を構想したという。
1399(応永4)年に創建されたと伝えられる金閣は三層の楼閣から成り立つ。初層の法水院には須弥壇に宝冠釈迦如来像と足利義満像が置かれた。中層は潮音洞と呼ぶ観音殿で仏間に観音菩薩坐像、その周囲に四天王像を配置した。上層は究竟頂という禅室で仏舎利を安置し、屋上には銅鳳を乗せた宝形造の屋根を構える。それぞれの層で寝殿造から和風の仏堂、さらに禅宗の仏堂へと、激動する時代の転変をあらわす建築様式の混淆は、義満が作り上げた「北山文化」の体現であった。
南北朝の内乱をおさめて朝廷を統一した義満が、明との交易をすすめて開花させた多彩な文化のシンボルが「北山山荘」である。山荘の内部は大陸の明から舶来した唐物の絵画や調度が飾り、まばゆい金色の荘厳に輝く舎利殿の金閣は、文字通り足利幕府の黄金期の象徴にほかならない。
30年にわたり、京都は戦乱によって荒廃をきわめた。戦火を潜り抜けて焼け残った〈黄金の楼閣〉を、政治的には〈無能の人〉と呼ばれた義政は茫々たる気持ちで眺めたのであろう。茶の湯や水墨画や能楽などを通して「東山文化」と呼ばれる日本文化の祖型を育てた義政の胸に去来したのは、祖父義満が歩んだ過酷な歴史が育む〈美〉の果敢なさかもしれない。
三島由紀夫が小説『金閣寺』で描いた舎利殿の金閣が炎上したのは1950(昭和25)年7月2日の午前3時ごろである。京都市北区金閣寺町の臨済宗相国寺派塔頭、鹿苑寺の舎利殿金閣(国宝)は瞬く間に火に包まれ、消防車10台が消火に当たったが、三層建てで金箔が施された楼閣は約一時間でほぼ全焼した。内部に安置されていた国宝の足利義満坐像をはじめとする文化財もことごとく焼失した。
警察で捜査をすすめた結果、出火直後から行方をくらましていた同寺の住み込みの徒弟、林養賢(21)の放火と断定する。同日夕、寺の裏の左大文字山中腹で服毒自殺を図って苦しんでいるところを発見し、取り調べたところ犯行を自供した。動機について、林は「金閣の美しさが妬ましかった」「金閣と心中する覚悟だった」などと供述。幼時から吃音に劣等感をかかえ、対人関係などに悩んできたことも背景にあったとみられる‥‥。
これが事件直後に明らかになった「金閣炎上」の背景である。金色に輝く名刹の舎利殿の放火炎上、その犯行が寺に住み込んだ修行僧の青年によるものであり、動機は「金閣の美への嫉妬」だという。「物語」が立ち上がる条件はすでに十分準備されていたといってもいい。
時代は戦後の日本がまだGHQ(連合国軍総司令部)の占領下に置かれており、平和と民主主義へ向かう国民のまなざしの傍らで、敗戦で否定された自国の歴史や伝統に対する懐疑的な空気は覆うべくもない。国宝金閣の放火炎上とその「美への嫉妬」という犯人の修行僧の動機に対し、世論とメディアが鋭く反応したのは、その落差の大きさゆえであったかもしれない。
三島が『金閣寺』の連載を雑誌『新潮』で始めるのは1956(昭和31)年だが、この事件に取材して日本画家の川端龍子が『金閣炎上』(1950年)を描き、水上勉が小説『五番町夕霧楼』(1962年)を発表する。三島の『金閣寺』も、金閣炎上に触発された当時の熱いまなざしのなかから生まれた。三島の小説はのちに市川崑監督による映画『炎上』として公開され、市川雷蔵が主演したその映像美学も高い評価を得た。
「幼時から父は、私によく、金閣のことを語った」
三島由紀夫の『金閣寺』の冒頭は、主人公のこのような独白で始まる。
舞鶴の貧しい寺に生まれた主人公は、住持の父親から金閣の美しさを聞かされて育った。幼時から吃音による劣等感を抱えた内向的な性格は、徒弟として金閣寺に住み込み大学へ通うようになっても続くが、身近に接する金閣は大戦の敗色が深まるとともにますます悲劇的な輝きを増していった。
〈私〉は戦乱と不安、夥しい血が流されているこの戦時下に金閣が美しさを深めてゆくのは当然のことだと考える。なぜなら、これはもともと不安が建てた建築、一人の将軍を中心とした多くの暗い心の持ち主が企てた建築であり、金箔に包まれた三層の異なった意匠は、乱世の不安を結晶させる様式として、自然にそのようなかたちを生んだのだ、と。
孤独な〈私〉を金閣の美しさに引き寄せる発条となるのが、彼が他人や社会を遠ざけて生きるように導いた〈吃音〉という身体的な〈負荷〉である。この小説はそれが重要なモチーフとなって、物語の糸を構成する。
三島は小説『金閣寺』の起筆にあたって残した創作ノートの冒頭に、こう記した。およそ芸術家にとっての〈美〉が、あらかじめ何かの絶対的な啓示によって降臨するようなものでなければ、それは彼自身の現実の経験のなかから導かれるほかはない。主人公が〈金閣〉の美によせる「絶対的なもの」は、〈戦争〉という恩寵と〈吃音〉という個人的な負荷が構築した。
敗戦の日、動員先の工場で天皇の詔勅を聞くと、〈私〉は駆けだすようにして寺へ戻り、金閣の前へ急いだ。敗戦の衝撃や民族的な悲哀というようなものから金閣は超絶しており、とうとう空襲にも焼かれなかったことを誇るかのように超然として、猛々しい緑の中で夏の陽光を浴びていた。
しかし、その輝きは激しさを増す空襲におびえながら見た戦時下の金閣とは違った、よそよそしさを漂わせている。「金閣は、音楽の怖しい休止のように、鳴り響く沈黙のように、そこに存在し、屹立していたのである」と〈私〉は振り返る。つまり、戦争という恩寵によって彼に微笑んでいた金閣の輝きは、敗戦によってその親し気な関係を失ってしまったのだ。
〈私〉が抱える〈吃音〉という身体的なコンプレックスは内向的な性格を強めて、異性とのかかわりに困難をもたらした。それは金閣寺へ修行僧として住み込んでからも続いた。ある日、寺から通う大学で知り合った友人で、内翻足の障害を持つ柏木が〈私〉に対し、「吃れ、吃れ」と挑発したあげくに一人の娘との交渉を仕掛けてきた。メフィストフェレスのような偽悪家の意地の悪い〈善意〉にのって、〈私〉はこの女性との性的な交わりを試みるが、やはり不如意に終わる。それは目の前の娘のみずみずしい乳房の向こうにあらわれた〈金閣〉の幻のためである。
主人公がそれほど愛着した金閣に火を放つ決意をするのは、戦争が終わってから彼の世界の秩序を形作ってきた〈金閣〉が沈黙し、行動を起こそうとする彼の意志に対して、このように立ちはだかり始めたからである。戦後の金閣の変容が、彼をある決意へ導いてゆく。「金閣は焼かねばならぬ」と。
小説『金閣寺』は美の象徴としての〈金閣〉をめぐって、それに蠱惑された主人公の〈私〉が日本の敗戦という時代の亀裂と、〈吃音〉という自身の身体的な負荷によって追い込まれ、その放火炎上に至る物語である。
〈美〉という観念を主題にした教養小説としての性格をもちながら、主人公を動かすモチーフが作家の三島自身の身体的な経験と〈敗戦〉という時代空間の経験を介して立ち上がり、物語を大きく飛躍させる。
〈金閣〉という美に抱かれた〈私〉の至福の感情は〈吃音〉という身体的な秘密を隠し持つがために高められ、空襲と夥しい死者が取り巻く〈戦争〉はこの美を荘厳するひとつの時代の恩寵にほかならない。それは愛の神エロスと時間の神クロノスに祝福された青年の悲劇、というべきだろうか。
〈私〉が〈金閣〉と出会ってその美に引き寄せられ、やがて敗戦によってその偶像が沈黙する。そして、女性と交わることのできない彼の不毛な戦後をあざ笑うような〈金閣〉への復讐として、〈私〉は火を放つことを決意する。ここに至る物語の展開には、要所要所に場面のイメージを広げるいくつかの効果的な挿話が使われている。
故郷の舞鶴の中学校を訪れた海軍兵学校の先輩に〈私〉が、吃音であることを告白すると、制帽に蛇腹の制服姿の彼は爽やかに言葉を返した。
「何だ、吃りか。貴様も海機へ入らんか。吃りなんか、一日で叩き直してやるぞ」
「入りません。僕は坊主になるんです」と答えると、周りは一瞬しんとした。若い英雄は傍の草の茎を摘まんで口にくわえてから言った。
「ふうん、そんならあと何年かで、俺も貴様の厄介になるわけだな」
やがて彼がその場を離れた後、〈私〉は密かに彼が脱ぎ置いた美しい短剣の黒い鞘にナイフで醜い傷を彫り込んだ―
金閣寺の修行僧となった〈私〉は戦後、GHQの占領が始まった翌年の雪の朝、娼婦を連れで観光に訪れた若い米兵を英語で案内する役割をあてがわれる。参観路を金閣の方へ案内すると、酔っている二人は諍いをはじめた。
「ジャーック、ツー・コールド!」。 女が叫び声をあげたあと、米兵を平手打ちすると、米兵が女の外套の胸倉をつかんで雪の上に引き倒し、女は素肌をむき出しにして真新しい雪の上に倒れ込んだ。酔った米兵は女の腹を指さして〈私〉に命じた。
「踏め。おまえ、踏んでみろ」
命じられて〈私〉の足は春泥のような女の腹を踏んだ
「もっと踏むんだ。もっとだ」
女は目をつぶって呻いていた。
やがて女を抱き起してジープに戻った米兵は、〈私〉に米国煙草のチェスターフィールドを2カートン押し付けて礼を言い、去っていった―。
前者は〈吃音〉という身体的な歪みを自覚する起点としての少年期の一場面の記憶であり、後者は敗戦後の米軍占領下に汚される〈金閣〉の美を目の当たりにした自身への哀れみをたたえた心象風景である。
〈吃り〉が自分の美の観念から生まれたのではないかと疑うようになった〈私〉は、美を「怨敵」と受け止めて〈金閣焼尽〉へ歩みだす。ニヒリストの友人、柏木の〈悪魔〉のささやきと、朝鮮動乱の勃発という外界の変事がそれを後押しするきっかけであった。
未明、金閣の漱清のほとりから法水院に入り、用意してあった三束の藁に燐寸の火を放つ。三尊像に囲まれて、足利義満の坐像がゆらめく火に照らされて浮かび上がった。突然、この火に包まれながら三層の九竟頂で死のう、という考えが沸き起こり、〈私〉は火勢を避けながら狭い階段を駆け上がる。
煙に包まれた潮音洞を抜けて三階の究竟頂の扉を開けようとしたが、鍵がかかった扉はあかない。力の限り叩いても、じかに体をぶつけたても扉は開かない。潮音洞はすでに煙に充たされている。
裏山を駆けのぼって左大文字山の頂へ走り抜けて倒れ込むと、はるか谷間から燃え盛る金閣の黒い煙と、爆竹のはぜるような音が伝わって来た。用意していた毒薬を谷底へ投げ捨て、ポケットから煙草を取り出して一服した。
1956年8月14日の擱筆が記された『金閣寺』は完結、出版されると大きく反響を広げた。一人の青年のエロスと時代というクロノスに抱かれた〈金閣〉の伝統的な美しさが、〈焼尽〉というアンビヴァレントな行為によって運命を反転させてゆく物語は、作家の一つの達成といってよかろう。
「批評の神様」と言われた小林秀雄も当初からこの炎上事件に注目し、直後に現場を訪れた。その印象は『金閣焼亡』という随筆に記されている。
『金閣寺』の刊行直後、雑誌『文藝』誌上で行われた著者の三島との対談で小林はいち早くその出来栄えを称えたあと、一点の疑問を挙げた。
小説の終末で主人公の〈私〉こと溝口が金閣へ火を放った後、裏山へ逃れて「生きようと私は思った」と独白して終わるくだりである。
金閣の美に魂を奪われた主人公が、沈黙し復讐をはじめたその金閣に火を放ち、核心の〈究竟頂〉に入ろうとするが、その扉は開かない。結果は当然、いわば〈美〉との無理心中となるのだから、金閣の焼尽ののちも「生きようと思う」のでは矛盾を生じる。これが小林の指摘であろう。
三島はこれに対し、曖昧にしか答えていないが、実はこの問いにはその後の作家の足取りを考える上で、ある重要な示唆を読み解くことができる。
戦後の出発点となった自伝的作品『仮面の告白』とこの『金閣寺』を貫いている通奏低音は、同性愛や吃音などを通した主人公の身体的な歪みの意識である。それはいずれも、彼らの外界との交渉に翳りをもたらす一方、その美とエロティックなイマジネーションの翼を広げる源泉にもなった。
そこに作者の三島由紀夫の実像が投影されていることはいうまでもない。子供のころ虚弱で「青ジロ」と綽名された平岡公威が同性愛への傾斜を自覚して、『仮面の告白』が生まれた経緯はすでに見た。『金閣寺』の主人公の〈吃音〉も、その延長で比喩的に作られた身体的な〈負荷〉である。
しかし、三島はこの精神と肉体をめぐるディレンマから離陸するための「自己改造」をこのころから始めた。訓練による「肉体」の改造である。
なるほど「歪み」と意識された身体を改造すれば、そこから彼の精神世界はおのずから、それまでとは異なる眺望を獲得できるのではないか―。
三島由紀夫の「自己改造」のきわめて象徴的な一例は、彼が1955(昭和30)年前後に始めたボディービルによる肉体改造である。それによって作られた筋肉は彼の身体的な劣等感を払拭し、それを社会的に誇示することによって、かかえてきた性的な指向性にも変化をもたらした可能性がある。
専門コーチを自宅に招いて、バーベルやベンチプレスなどまであつらえて始めた訓練は忍耐強く持続し、彼は次第に格闘家並みの筋肉をつけてゆく。
「世の中で何が面白いと言って、自分の力が日ましに増すのを知るほど面白いものはない」と三島はその喜びを隠していない。
この肉体的な自信の獲得は、居心地の悪かった〈戦後〉という時代との和解と、奇妙な活気が溢れだした成長の時代の華々しい演技者としての自覚を、三島に促した。「肉体改造」はボクシングや剣道にまで手を広げる一方、自作の演劇公演や娯楽映画への出演、自ら裸体のモデルとなった写真集へ登場など、メディアへの露出による〈三島由紀夫〉の表出によって、文学の領域を超えた同時代のスターの場がそこに生まれる。
この「自己改造」が三島にもたらしたもっとも大きな変化は、彼が生来の性的指向として持ち続けてきた同性愛を一時的にせよ棚上げし、異性愛への自覚を強く促して行動するきっかけとなったことではなかろうか。女性との交渉と結婚から家庭の構築という道筋を自ら示してみせたことは、ゆきつくところ伝統的な家庭人としての三島の自己表明につながっていく。
『仮面の告白』が明らかにしたように、三島は女性との恋愛関係を結ぶにあたって試行錯誤を繰り返し、多くはうまく運ぶことがなかった。女性との円満に成功した恋愛体験はそれまで、少なくとも表向きは語られていない。ところがこの「肉体改造」と前後するようにして、梨園につながる一人の女性と三島が男女の関係を取り結び、三年ほどにわたって親しい行き来を重ねていたことが近年、岩下尚史の『直面(ヒタメン)―三島由紀夫若き日の恋』などで明らかにされた。
三島が親しくなった女性は豊田貞子といった。赤坂の著名な料亭の娘で、歌舞伎座の楽屋に自由に出入りするような家庭環境であったことから、中村歌右衛門の楽屋で三島と知り合ったという。着物と芝居を道楽のようにして社交の場を行き来する、まだ20歳前の娘であったが、人あしらいの巧みな薹の闌けた魅力に三島はゆるゆると恋に落ちた。
三島は古代ギリシャの『ダフニスとクロエ』の本歌取りとして、伊勢湾の小島を舞台に若い男女の純愛を描いた『潮騒』が空前のベストセラーとなり、映画化されるなど、流行作家としての名前はますます大きくなっていた。長編小説『沈める滝』に続いて生涯の代表作となる『金閣寺』の連載が始まり、多忙を極める日々―。それを縫うようにして、三島は都内のホテルや料亭、仕事で滞在した湘南や熱海のホテル、『金閣寺』の取材で訪れた京都など、さまざまな場所で貞子との逢瀬を重ねた。
この頃の三島の作品には、この女性の影を映したものが少なくない。『橋づくし』は花柳界を舞台に、銀座の芸妓と料亭の娘が3人で願をかけ、無言で7つの橋を渡り通すことを競う短編で、モデルの一人の貞子は、三島とともに舞台に設定された築地川周辺を実地検分までしている。
当時のことを、貞子はこう振り返っている。
「面白いほど、書けて、書けて、仕方がないんだ」。
この言葉はちょうど『金閣寺』の連載が佳境に入っているころ、執筆に同行した熱海のホテルで貞子が直接聞いている。
貞子の証言は、戦時下に恩寵や奇跡を待ちながら〈死〉の想念に包まれていた三島が、居心地の悪い〈戦後〉を払拭してようやくこの戦後という時代と〈同棲〉する足場を得たことを伝えている。それは三島の肉体的な「自己改造」と豊田貞子という女性との出会いによってもたらされたのであり、その陰に『金閣寺』という、〈戦後〉をめぐる鬱蒼とした美の焼尽の物語があったことを、改めて見つめてみるべきだろうか。
「私は青年期以後、はじめて確乎とした肉体的健康を得た」と三島はボディービルの経験を語り、そのうえで「活動的にもなり多忙にもなったが、決してそのためだけではなくて、私には、死について考えることに対する、いわれのない軽蔑が生じた」とも述べている。
肉体的な自己の回復は、三島の〈社会的自我〉の成長を促した。
日記体で綴った『小説家の休暇』の1955(昭和30)年7月5日の項に、三島はこう書いている。
さらに「少年時代の空想を、何ものかの恵みと劫罰とによって、全部成就してしまった。唯一つ、英雄たらんと夢見たことを除いて」と続けたあと、さりげなく三島は「ほかに人生にやることに何があるのか。やがて私も結婚するだろう」と記した。
これは豊田貞子を伴って『金閣寺』の執筆のために滞在した熱海ホテルで書かれたようである。貞子との結婚も脳裏に浮かんだのだろうか。
しかし、その恋は未完に終わった。
=この項続く
◆標題図版 川端龍子「金閣炎上」(1955年) 彩色・紙本・軸・1幅 142.0×239.0 左下に落款、印章 (東京国立近代美術館蔵)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/486488194/ref=dbs_a_def_rwt_bibl_vppi_i2