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生原稿を読んでみた「介護は万事塞翁が馬 ~100歳のかあちゃんを自宅で看た話」
この夏、思いがけず著者の生原稿を読ませてもらう機会にあずかった。それがこのたび実際に刊行されるとのこと。自分で書いたわけでもないのに、なんだか浮足立ってきた。
秘かに書いておいた感想文だったけれど、介護の日(11月11日)にちなんで、公開してみよう。ご笑覧ください。
読んだ本はコチラ。
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厚生労働省の統計資料(介護保険事業状況報告 令和二年七月)によると、要介護(要支援)認定者数は672.6万人とある。こうして数字を示されても、どうも現実味が湧かないのは私だけだろうか。しかし、このうちの一人は、確かに存在した、筆者の「かあちゃん」だ。
ひと口に要介護(要支援)と言っても、状態は十人十色、自宅で暮らす人も施設に入る人もいる。家族のある人も身寄りのない人もいるだろう。ましてや一人ひとりの人生は、どれほど多様なことだろう。
大勢のことを全体で見るとき、もちろん統計は利便性の高いものだ。しかし、統計上の数字は、多様な私たちすべてを、厚みも広がりも体温もない「1」と均質化してしまう。
とはいえ、たかが「1」、されど「1」である。
この本は、筆者が母親を介護した手記、つまり統計から見れば、ただの「1」に過ぎない。しかし、血の通った「1」であればこそ、そこには確かな手応えがある。
介護には心温まる側面もある一方、する側もされる側も、それぞれに難しさや辛さがある。それが母娘であれば、なおさら葛藤も激しい。感情的になれば、賢明とは言い難い言動もする。そんな自分を責めてしまう。実際に7年間介護をした筆者は、日々痛いほどにそう感じてきたのだろう。
卑近な話だが、私自身の体験を例に出すなら、振り返れば「あっという間」だけれど、その真っただ中にいるときは、あのドタバタが永遠に続くように感じられ、気が遠くなった。
認知症の母親を介護することの辛さはどこから来るのか。それは、いま目の前にいる年老いた母が、あの、幼いころから頼り切っていた、他ならぬ「私のかあちゃん」とは別人として接しなければならない瞬間ではないだろうか。
幼少期からの「頼り・頼られる」関係は、お互い心の奥に脈々と続いている。にもかかわらず、「介護・被介護」「支援・被支援」という現実のコントラストが、互いの立ち位置を脅かす。
「100歳にしては立派!」と周りの方々から絶賛されることは、むしろ「私のかあちゃん」と、いま目の前で私を手こずらせている老母との差を浮き彫りにする。
その差を受け入れることは容易ではない。たとえ何十歳になろうとも、いついつまでも私は「私のかあちゃん」に頼り切っていたい。筆者の心はひたすら目の前の現実に抗う。
「違う!逆立ちしたって叶わないほど機転が利く、あのかあちゃんと違う。どんな困難も軽々と飛び越えるかあちゃんと違う。どんなに反抗したってビクともしないかあちゃんと違う。『私のかあちゃん』と違う!」
それは、「かあちゃん、いつまでも元気でいてよ!」という願望の叫びの裏返しだ。
ここには筆者の「ダメ娘」ぶりも包み隠さずつまびらかにされている。ときには、読んでいるこちらが、「なにも年老いた母親にそこまで……」と思う場面さえあるほどだ。
家族の介護の日々では、ときに心の中で感情の嵐が激しく荒れ狂い、理性を凌駕してしまうこともあるのだろう。なぜなら、言動は理性でコントロールできても、感情は理性よりもずっと深いところから、猛烈なエネルギーで突き上げてくるものだから。
自らの腹の底で煮えたぎる、その野獣のようなエネルギーを赤裸々に語ることは、思いのほか勇気が要る。それを筆者はぶつけるように書き記す。
さて、この本を手に取ったあなたも、過去・現在・未来のいつか、何らかの形で、介護に関わった、または関わるかもしれない。
もし介護未経験ならば、「こんなこともあるのか」と、この本が将来へのちょっとした心の準備になるかもしれない。
もし今、介護の真っ最中にいるあなたが、時に行き詰りを感じたり、自身を責めたりすることがあるのなら、筆者のダメ娘ぶりに共感する部分があるかもしれない。そんなとき、「私だけじゃなかった」と思うことで、小さなガス抜きになれば幸いである。
そしてもし、あなたが既に介護を終え、時折それを振り返っては、「ああしてやればよかった。こうもできたはずなのに」と胸を痛めているのなら、「あなたは悪くない」と伝えたい。
「縁あって刊行前の生原稿を読んだこの本が、そんなメッセージを届ける一助になったなら……」
そんな希望が、閉じたページの間から、吐息のように出てきた気がした。