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ヴィゴツキー読書会に参加してみた!

公開ボタンを押し忘れたままの下書きを見つけた。話題は数か月前のこと。どうしようかと迷ったけれど、改めて公開ボタンを押してみます。
読書会でご一緒したみなさんへの感謝を込めて。

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ある日、Xを眺めていたら、こんなポストに目を奪われた。

興味を持ちつつも、不勉強な私はひるんだ。ひたすらモジモジして月日は矢のように過ぎていく……。

しかし、もはやそんな場合ではない。だって都合のつきそうな日程は、後にも先にも直近の1回のみ。
「当たって砕けろ!」とばかりに主催者へメッセージを送ったのが、第9章の開催当日。そんな慌ただしい連絡にも親切な返信が届いた。

「仲間同士の気軽な読書会です。予習できなくても大丈夫。」

胸をなでおろし、無謀にも丸腰でzoomに接続。

参加者は10名くらいだっただろうか。みなさんの話しぶりから察するに、小学校の先生が多い様子、保育士さんもいらした。

開始前の雑談では、どのメンバーの口からも「忙しい」「時間が足りない」といった言葉が幾度となくこぼれる。何気ない一言だけれど、何となく聞き流せない切実さを感じた。(とはいえ、皆さん予習はバッチリ。さすが……)

主催者さんの言葉どおり和気あいあいとした雰囲気の中、開始時刻を迎えた。

第9章を読んだ感想や引っかかる部分などを共有し、さらにその言葉に触発された発言が続く。知識不足な私の発言にもシッカリ耳を傾けてくださり、感謝しかありません。みなさん、ありがとうございます!

(個々のご発言については、「勝手に広報部!」といえども勝手に公開するわけにいきませんので、ここでは触れません。あしからず。)


さて、実際に参加してみて、最大の収穫は「あの場でホットな話題になった箇所を自分なりに読み直してみたい!」と強く思えたこと。

というわけで、お手元に『ヴィゴツキー 教育心理学講義』をお持ちの方は、201ページを開いてください。

 小役人が自分の上司にひどく侮辱されました。この種の刺激作用はいつも彼に対して、(中略)習慣となっている制止を呼び起こしました。

『ヴィゴツキー 教育心理学講義』より

一読して、モヤモヤ・ザワザワしてくる。ちょっと強引だけど自分なりにシックリくる言い方に変換してしまうと、こんな感じだろうか。

 職場で上司のパワハラ発言がありました。こんな時、部下は自身の心の傷や怒りなどの感情を抑えることが習慣化してしまっています。

勝手に変換バージョン

これって現代日本でも結構ありがちな場面じゃないの! 私自身、自分の感情を抑えることが習慣化している気がする。いえ、完全に習慣化している。殊に職場では。
むしろ驚いたのは、当時のソビエトでも感情を抑えることが習慣化している人が少なからずいたらしきこの書きぶり。

なんだか身近に感じられて興味が湧いてくる。よし、もう少し読み進めてみよう。
理解の間違いもあるかもしれないけれど、このページを私なりに超訳しちゃったものがコレ。(要約ではありません。)

 このように部下が自分の感情を抑えることを日々繰り返していた場合、その後の彼の行動には次の二通りの可能性が考えられます。
 ① 上司のパワハラとは直接関係ないこと、例えば家族のほんのちょっとした言動にもイライラしやすくなります。さらにそれが積もり積もると、パワハラとは無関係の捌け口に対して、八つ当たりという攻撃的な行動が突発的に生じ、自分で自分を制御することすらできなくなります。(そんな時、妻や子どもたちは、気の毒にも手ごろなサンドバック代わりにされてしまうかもしれません。)
 ② パワハラを受けたことによって生じかねない攻撃的な行動は抑えます。しかし自身の心に生じた傷や怒りといった感情そのものは胸のうちに保ち続けます。さらなるパワハラが重なれば、その感情は彼の内面に(怒りなどの)エネルギーとして蓄積します。一方、周りに目を向けると、実は自分と同じように社会構造の中で虐げられた者たちがいることを知ります。彼らは個々の受けた理不尽を単に個人的な不運としてでなく社会問題として捉え、それを乗り越えるために連帯し、運動を組織します。こうした活動を積み重ねることで、パワハラを受けたことで生じた内的なエネルギーは、攻撃的な行動として表面化することなく、より良い社会を築くための活動へと昇華したのです。
 つまり、上記①のような短絡的な反射は、源を辿れば内面的なエネルギーと言えます。そのエネルギーを適切に蓄積し、時間をかけて適切な目的をもった活動に向けることができたなら、それは②のように創造的な行動に転化することが可能なのです。

勝手に超訳バージョン

これはあくまでも「私なりに読んで、こう考えてみた」ということなので、間違いがあるかもしれません。その時はごめんなさい!
……と言い訳しておいて(汗)、もう少し考えてみます。

まず驚いたのは、怒りなどの感情はエネルギーだというところ。あらためて自分の内面を見つめてみると、「確かに」と頷かずにはいられない。しかし同時に、感情、特に怒りなどのマイナスの感情が生じると、「やっかいなもの」として抑えつけてしまいがちだ。ということは、これまで私は自分のエネルギーを有効活用してこなかったということになる。 

これを無自覚なまま放置してしまえば、生じたエネルギーは出口を探してあらぬところへ流れ出す。それが①の八つ当たり。
ヴィゴツキーが示している例は、皿を飛ばしたり机を拳で叩いたり、かなり激しいものだ。しかし現代日本の私たちに変換するならば、それは必ずしも極端に激しく暴力的なものばかりでなく、時には貧乏ゆすり、給湯室での陰口(←イマドキない?)、無気力などといった形で現れるかもしれない。

一方、その感情を大切なエネルギーとして捉えるとどうなるか。これが②の「より良い社会を築く活動への昇華」。さらに「創造的な行動」とも言い替えられている。

何が異なることで、①と②ほどに行動の違いが生じるのだろう。
自らの内面に生じたものに無自覚か、自覚的か。大きな違いはそこにあるのではないだろうか。自身の感情を無自覚なまま放置せず、向き合って捉え直す。自覚的であることが、自ら考え、主体的に行動することを助けるはずだ。

こう考えた時、ふと読書会開始前の雑談が思い出された。

ほとんどのメンバーがこぼしていた「忙しい」「時間が足りない」という言葉は、決して個人的な問題として片付けることはできない。「教員の長時間労働」や「保育士の配置基準」などの社会問題と切っても切れないものだろう。

献身的な皆さんは、あくまでも児童・生徒や園児たちのことを分析・理解するために書籍の内容を活用しようと努められていた。殊勝な心掛けに頭が下がる。

しかしもしも、それぞれが「忙しい」とこぼさねばいられない状況におかれていることや、その感情を改めて捉え直したらどうだろう。自身を社会問題の当事者として自覚的に捉え直したらどうだろう。

もちろんそこから、社会運動が組織されると簡単に結論付けるつもりはない。

生徒という他者を分析・理解しようとするならば、先ず隗より始めよ。自身を分析・理解することを自覚的に試みたならどんな変化が起きるだろう。
先のことはもちろんわからない。けれども、ヴィゴツキー言うところの「内的なエネルギー」を自身の胸のうちに見出せる可能性を感じる。そしてそれを自覚的に活用したなら……

おっと、危ないところだった。このままだと野次馬になりかねない。ここは翻って、先ず隗より始めよ。

他の誰でもない、まず私自身が、どれほどのエネルギーを自身の内面に抑えたままにしているのか、向き合ってみよう。そして自覚的に捉え直し、社会と関連付け、主体的な行動に結びつけたならどんな変化が起きるだろう。
それを自分で実証試験するところから始めてみよう。

おや、こんなことを考えていたら、胸のうちに期待と不安という双子が生まれてきたのを感じる。


読書会に参加したのをキッカケに、気づけばだいぶ興奮していた。やっぱり参加させてもらって良かった。

ホットな話題になった箇所だけでなく、第9章を通して読んでみたくなってきた。よし、読んでみよう。
そうしたら、もしかすると第9章だけでなく、『ヴィゴツキー 教育心理学講義』を最初から通して読んでみたくなるかもしれない。そしたらどんなエネルギーが湧いてくるのかな。楽しみになってきた。

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