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お盆に、折口信夫『たなばたと盆祭りと』を読んでみる
──正月の「おめでたう」の上に、今一度「おめでたう」を盆に唱えて、長上の健康を祝福したのであった。
上記は、民俗学者・折口信夫の「盆」に関する記述を読んでいて、私がいちばん気に入ったフレーズです。
折口先生によると、盆とは、生者でも亡者でもひとしく〝魂を祝福する〟ものであったらしい。
これって、子守唄にも通じる概念のような……🤔
最近、私はわらべうたの『盆ぼん』について調べています😌
このわらべうたに限らずですが、盆の唄を調べようとすると、そもそも『盆』とは何なのか? 理解が足りていなかったことに気づかされます。
地域による習俗はさまざまですが、
視野を広くして『盆』の変移を見ていくことは、そもそもの根本にある『〝魂〟というものをどう考えるか?』という問いに行き着くと思いました。
折口信夫『たなばたと盆祭りと』
七月のたなばた、八月の盆、この二つの接近した年中行事について、いずれも現在の認識とはずいぶん違う元の形があった……ということが書かれています。
よく知るわらべうたの名称も出てきました。
「をんごく」「ぼんならさん」
行事・祭りの名前ですが、わらべうたとしてもそのままの曲名が『わらべ歌全集』に載っていて、歌ったことがあります☺️
青空文庫・おすすめの朗読
青空文庫のおかげで、無料で読むことができる他、
Asanoさんによる朗読がyoutubeでも聞けて助かります。
耳から聞くと、意外と? するすると内容が頭に入ってくる気がします。
朗読を聞くのが、私の最近のマイブームです😆
Asanoさんのチャンネルでは、柳田國男、折口信夫といった、民俗学の随筆をいろいろと上げてくださっています。
たなばたと盆祭りと 出典
底本:「折口信夫全集 3」中央公論社
1995(平成7)年4月10日初版発行
初出:「民俗学 第一巻第一号」
1929(昭和4年)年7月
二大イベント! 正月と盆
どちらも〝顔見せ〟である
我々の過去には、正月の「おめでたう」の上に、今一度「おめでたう」を盆に唱へて、長上の健康を祝福したのであつた。これを、死者にする聖霊会と分つ為、十三日以前に行ふ事にしてゐた。盆礼の古い姿である。
年頭、或は中元に、長上のいきみたまを祝福する為に、散居した子・子方等の集り来るのが、近世の藪入りの起りであるらしい。
正月と盆には、同じ役割があったということのようです。どちらも親族が一同に介する行事ですよね。
離れて暮らしていたとしても、一族ゆかりの神様・仏様には〝顔見せ〟を定期的にしないといけない……そういう意識がはたらくのでしょう。
(もちろん、その際に地域コミュニティにも〝顔見せ〟をすることが、社会生活をおくるにあたって大切なことだったと思われます。)
特に子どもが離れて暮らしている場合は、大事なことです。「この子もうちの子です」という帰属をはっきりさせておく必要があります。
『薮入り』とは、丁稚奉公にでている子どもが、お盆に故郷に帰ることを言います。(何らかの事情で帰れない子は、店の主人が閻魔詣でに連れていってあげる…というのが常識だったらしい。)
神様・仏様にも、ご先祖様にも念入りに、「この子もうちの子ですから」「どうぞよろしく」と頼んでおきたくなる、これは心情的にとても分かる気がします。
正月ごと、盆ごとに、〝魂(いのち)を更新〟する
〝魂〟を新しくするとはどういうことか? これは正月の鏡餅を想像すると分かりやすいかと思います。
鏡餅とは……諸説ありますが、丸い餅を〝魂〟に見立てて、神様に『魂を献上する』ものだと考えられています。
献上したのに食べてしまうのは、なぜか?🤔
これは、鏡餅をしばらく神棚に上げておくと、飾っているその間に、神様が餅の中へ〝新しい魂〟を宿してくださるので、食べる=いただくという意味があります。
つまり、古い魂を捧げておくと、新しい魂を与えてもらえるから、それを体の中にとりこむ。そうやって、〝命を更新する〟ことがお正月の大事な役割でした。
これが、盆においても同じ役割があったとは、興味深いですね。
お盆に鏡餅は食べませんが(ぼたもちは食べるかな?)、〝盆棚〟をつくってそこに色々お供えをしたりします。
〝ぼんがま〟と言って、火の穢れをはらって身を清めてから、神様をお迎えする、という習俗もありました。(特別なかまどで煮炊きをする、ということが、身を清めることになるわけです。)
これには、あらためて神様にお越しいただくことで、〝生活を一新したい〟という意識があるように感じられます。定期的に更新をすることが、みんなが健康であるために必要である……という意識が日本人にはある。とても興味深いことです。
亡者のため? 実はそれだけの行事ではない
生前の待遇を、死後も同じようにつづけた結果
盆も正月も、同じように『魂(命)を更新する』行事であったのが、なぜ変化したのか? 仏教の影響を受けるうちに、亡者のための儀式という色が強くなっていったようです。
折口信夫は以下のようにも書いています。
亡魂が返るのを、迎へてまつるといふのではなく、亡者に孝養ケウヤウを示す為に、生前同様、目上としての待遇を、改めなかつたのであると思ふ。
(中略)
盂蘭盆と、年頭礼とを、全く別々に、一つを死者の為に、一つを生者の為と漠然たる区別をつける様になつても、やはり以前のおもかげは、隠れきつてゐないのである。この意味において、われわれは、生き盆の材料・方式を、今のうちに、共同努力の下に、蒐集しておきたいと思ふ。
死者に対しても、『生前同様の待遇を』示そうとした。なるほど!
根本的にはどちらも魂のために『安らかであるように』を祈っているということ。
生者のために祈ることも、亡者のために祈ることも、元来は区別がなかったのだということです。
生と死を区別せず、どちらの魂にも呼びかけている。
これって、実は、子守唄にも同じことがいえるのです。
生と死を区別しない
(子守唄にも通じる、と私が感じたところ)
先日、鵜野祐介先生の講演を聞いてきました。
先生の著作『世界子守唄紀行』にも書かれていますが、子守唄とは、生死を飛び越えた〝いのちの讃歌〟ではないか? このお話を、講演会場でもあらためて些細に聞くことができました。
子守唄は生死をこえて命そのものを歌っている、という考え方はとても興味深く、〝魂〟という概念の理解にも繋げられる気がします。
子守唄には、悲哀を感じるような、物悲しいメロディが多くあります。
世界の子守唄を見てみると、さらに直接的に「死者をしのぶ歌」を歌う傾向も確認できます。例えばアイルランドの子守唄には、「失くした夫・恋人を恋しがる歌」があります。
なぐさめの歌として、歌う自分自身を慰める機能はもちろんあるでしょう。
また、赤児へやさしく歌いかけることで、その想いが、その子の背後にいる過去の命(ご先祖)にも届くと信じている、だから歌うのだという気もします。
赤ちゃんを見ると、おじいちゃんおばあちゃんの顔を思い出す。新しい命に触れると、過去からの命の連なりを想わずにはいられない……そういう感覚は誰しもがもっていることでしょう。
生を見て、死を想う。生命とはおおきな川であり、ひとつの流れで繋がっているのだと、人間は昔からそう感じてきたのかもしれません。