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星野道夫『長い旅の途上』,八尾慶二『やとのいえ』 ::初夏に読みたくなる本

夏を目前に 今読みたい本と絵本


:: 星野道夫『長い旅の途上』文春文庫
:: 八尾慶次『やとのいえ』偕成社

主に上記2冊を紹介しつつ、〝自然体験をうながしてくれた読書〟の思い出や、『センス・オブ・ワンダー』についてもちょこっと触れていく記事です。



星野道夫『長い旅の途上』


夏が近づくこの時期になると、妙に読みたくなる本がある。


星野道夫の『長い旅の途上』はそのなかの一冊だ。


私は10代の頃から星野道夫のファンだ。
最初は、ホッキョクグマの写真を目当てに著作をめくったのだが……次第に文体のほうに強く惹かれ、写真のついていない文章も読み進めた。

写真集は高価だが、文庫本であれば比較的に買い求めやすいというのもあり、一時期ハマって読みまくっていた。おそらく、随筆は全て読んだはず。


動物写真家として名高い星野道夫氏は、カリブーやザトウクジラ、ツンドラ地帯に咲くちいさな花々、先人の遺したトーテムポールなどなど……アラスカを拠点に極北の地を撮り続けた人だった。



彼の随筆は、そんなご自身の自然体験を……まるで焚き火の前でぽつぽつと語っているような、あたたかく優しい調子でつづっている。

しかし、ふっと心によぎる一瞬を見逃さないところには、優しさだけでない鋭さも感じる。私は、むしろ、星野氏のそういうところが好きだ。


星野道夫は、〝生きること〟の深淵を怖がらずに覗きこむ。
人間の豊かさとは何か? 幸せとは何か?
真っ向から問いかけることを、躊躇しない。



クマと目が合って、お互いの一瞬を共鳴させたときのエピソードがいい。「僕とクマは友達だ」などと興奮に酔いしれるのではなく、ただ深々と、人間と野生動物とのあいだに流れる絶対的な〝へだたり〟を描写した。
畏敬の念をそうやって表現できるのが星野道夫だ。

……と、誰かが力説していた。のを、よく思い出すのだが、誰がそう言ってたかを思い出せない🙄(あーあ!そんなことばっかり!)


自然のうつくしさに驚嘆したとき、スッ、と静かに己へ問いかけられるかどうか。己の内側へ、問いかけつづける感じ……。そこが好きだ。

上手く言えないが、その静けさに、真に聡明であるとはどういうことなのか、いつも考えさせられる。
(自然への畏敬の念、と言葉でいうのは簡単だが、ここまで表現・体現した作家を、私は他に知らない。)



厳しい寒さの描写も格別だ。「マイナス50度まで下がった朝の輝く大気」混じりけのない寒さの描写がなんともいい。アラスカの人々との交流、民族の生命観へ注ぐまなざし、どれも透きとおっていて素晴らしい。


──そして、私がふとしたときに想起する〝星野道夫〟は、上記文春文庫の一冊に収録された『アラスカの夏』という小編のなかにある。




朗読(soundcloud プレイリスト)



◇アラスカの夏

 七月のある日、最初のイチゴ事件が起きた。やっと熟し始めたイチゴを、もう一日だけ待って摘もうとした朝に、何者かによってすでに摘まれてしまったのである。妻の落胆ぶりは想像にあまる。犯人(?)が残した唯一の状況証拠は、一個のキノコである。まるでイチゴをかすめた罪ほろぼしをするかのように、木箱の横にそっと置かれているのだ。

文春文庫『長い旅の途上』 p92

夫婦を悩ませた〝イチゴ泥棒〟の存在が、いきいきと描かれている。ささやかなミステリー調の始まり方も良い!

「その季節の色に、私たちはたった一回の生命(いのち)を生きていることを教えられるのだ。」

星野さんらしい洞察も冴えわたり、言葉のチョイスも輝いている。じんと胸にくる。久しぶりに読んでも、やはり引き込まれてしまう。

長さがあるわけでもなく、さっと読めてしまうものだが、すごく充実した読後感をもらえる。

せっかくなので、その『アラスカの夏』を朗読してみた。聞いてもらえると嬉しい。

……が、前後に、丹精につみかさねられた星野氏の文章があるからこそ、この可愛らしい小エッセイが光るのだろうと思う、ので、できれば『長い旅の途上』全編通して読んでみてほしい!


長い冬を過ごしたことから、夏の、豊かな恵みへの強烈な想いが生まれる。鈍色の冬があるからこそ、より一層、夏の輝きが美しい。

──当然のことだが、私たちの肌は、暑い寒いか、だけを感じているわけではない。

季節との関わり方が、そのまま作家の表現力となるのだろうと、想像する。景色をとおして何に気づくかで、自己の内側を満足させていく、ということ。

星野道夫から教えてもらう〝幸せ〟は、私たちの肌の感覚をも磨いてくれる、そんな気がする。



◆自然のささやき

また、同書に収録された『自然のささやき』では、まだ薪ストーブが活躍するような、冷たい空気をたたえた早春の朝に感じた想いが描かれている。

 初めてこの土地に移り住んだ二○歳のころ、アラスカの自然はこんなふうに優しく語りかけてはこなかった。きっと、私も緊張していて、力ずくでこの自然に向かっていたのだろう。

文春文庫『長い旅の途上』p138


ふとした一瞬に、忘れていた人間性が呼び覚まされるという経験。短い文章のなかに詰まっているものがなんと多いことか……この文才、人間力! 好きだ……。



◆夏至

これも同書に収録されている『夏至』も、季節と心の動きを感じさせてもらえるという意味でとても良い。

一年でもっとも日照時間の長い夏至。いちばん日が長いということは、「明日からは短くなる」ということ。だから、遠い冬の存在をつよく意識するのが夏至なのだという。その思考の跳躍にはっとさせられる。

常に太陽への祈りをもっているという、フェアバンクスの人々の感性に、思いを馳せる。

 夏至がやって来る。太陽の描く弧はどんどん頭上に舞い上がり、もうほとんど沈むことはない。が、夏至はこの土地で暮らす人々の心の分岐点。本当の夏はこれからなのに、明日から短くなる日照時間に、どこか遠くにはっきりと冬の在り処を感じるのだ。

文春文庫『長い旅の途上』p171


これは、想像と共感でしかないが、でも、なんとなく分かる気がする……! 


日本人の暦との付き合いもそうだと思う。

上手く例えられるか分からないが、小寒と大寒はどうだろうか?

二十四節気の〝小寒〟(特に初日の〝寒の入り〟)には、いよいよ寒さが厳しくなるがまだ本番ではない、「まだこれから大寒が控えているぞ!」という意味がある。

そうして、〝大寒〟はというと? 寒さのピークではあるが、ここが底だと思えば、気持ちが明るさのほうへ向かう。「もうこれ以上は寒くならない、冬は終わる」という意味で、春への希望を感じさせる節気になっているのではないか。
そうして大寒の最終日には、季節の変わり目である節分がやってくる。





八尾慶次『やとのいえ』


もう一冊。いまお気に入りの絵本について書きたい。

八尾慶次『やとのいえ』偕成社


「やと」とは「谷戸」とも書き、なだらかな丘陵地に、浅い谷が奥深くまで入り込んでいるような地形のことをいいます。
この絵本では、東京郊外・多摩丘陵の谷戸をモデルに、そこに立つ一軒の農家と、その土地にくらす人々の様子を、道ばたにつくられた十六の羅漢さんとともに、定点観測で見ていきます。

偕成社HPの紹介文より


私自身も、多摩丘陵に住んでいる。30〜40年前までは山だった場所だ。
近くには、白洲正子の住んだ〝武相荘〟のある旧鶴川村もある。白洲正子によると、土地の人は「裏谷戸」と呼んでいたらしい。

この『やとのいえ』は、地元の図書館が勧めていたので手に取った。(私は図書館のヘビーユーザーだ。)二度、三度と借りて読み、ついに購入した。

また、地元の有隣堂も、横浜や川崎の土地開発をふりかえる本などを、〝地元コーナー〟のような感じでよく置いてくれている。

自分の住んでいる街の歴史をふりかえるのは面白い。
明治・大正・昭和という言葉を、教科書の暗記ではない、現実とリンクさせた理解にしていく作業は、いろんなものへの好奇心を活性化させていく作業でもある。




谷戸の景色と人々のいとなみ、その150年の歴史を、十六人のらかんさんたちと見つめていきます。

本作では、見開きの左に十六らかんさんを、右に谷戸の景色を描いていくのですが、谷戸がどんなに変化しても、らかんさんたちはおだやかにほほ笑み、手を合わせています。

絵本ナビ 紹介文より



私は特にこのページが好き。蛍のいる景色が描かれた、見開きだ。題には昭和20年とある。


この見開きを眺めていたら、ぶるっと身震いするような、言葉にしがたい想いが沸いてきた。

ホタルを〝魂〟として扱う文化的意識があることについては、最近のnote記事でも書いたところだったので、感慨深かった。



──レイチェル・カーソン著『センス・オブワンダー』にはこう書かれている。

「人は、いま見ているものがもつ意味に思いをめぐらし、驚嘆することができる。」

だから、一枚の絵の向こうに、そこに描かれていない、気配のようなものまでが見えることがある。
花や季節の今この瞬間を見て、悠久の時を感じることができる。
夜空を見上げれば、たとえひとつも星の名前を知らなくても、この宇宙に驚嘆することができる。


ヒトの脳の発達は、高度に抽象化した情報の共有を、可能にした。
それはつまり、まだはっきり言葉にされていない概念などの大きなくくり、なんとなくの思いのかたまりも、他人と分かち合えるということ。

その場で目に見えたものだけではなく、その向こう側にあるものを、抽象化してひっくるめて、全て味合うことのできるのが人間だ。



自分が直接に経験してはいないものも、ヒトひとりの一生をこえた〝人類としての生命〟のような広大な感覚も、読書という抽象化のかたまりをとおして、共有することができるのが人間だ。

私はいつもこうした読書体験に感謝する。

そうして、お気に入りの本たちは、自然のなかへ出かけていこうという気持ちも、私に与えてくれる。(私だって家にこもってばかりじゃないんだよ、本の虫ではあるけど!)

紙の匂いが大好きだけれど、同じくらいに、草の匂いも好きだ。まだ嗅いだことのない花のかおりを、想像することも好きだ。


そういうことを、自然と人間との関わりを描いた本たちは、いつも考えさせてくれる……。




センス・オブ・ワンダー


そして最後に。記事を書きながら、やはり最後は原点に立ち返って? 『センス・オブ・ワンダー』を読むべきかと思い、本棚からそれを引っ張り出してきた。




そういえば……。わらべうたも、動植物や天体気象へ呼びかけるように、花や鳥、風や雨を歌ったものが多い。

私は、それらを通して育つものは、人としての〝感性〟だと思っている。


自然への興味関心や、〝心の芽ばえ〟に思いを巡らせることを、伝えていく活動をしたい。

「子どもたちが、春の小鳥たちのコーラスにまったく気がつかないままで大人になってしまわないようにと、心から願っています。」

センス・オブ・ワンダーにもそう書かれているとおり。


どうしたら、それができるのか? 今すぐ言葉にするのは難しいが……。
ただ、大人になってしまった人間たちは、特に。自然にふれるよろこびというものを、意識的に、積極的に感じるように体を動かしていかないと、ただ生きてるだけでは感受性の維持ができないのは事実だと思う。

感覚に蓋をしないこと。そして、正解のない問いかけをもつこと。

「風を浴びると気持ちがいいのは、どうしてだろう?」
「緑のなかにいると、日々摩耗して失っていくものを取り戻せる、それは一体なぜだろう?」

そういった問いかけを待ちつづけること自体が、もしかすると、己の内側を満たしていく……、ということなのかもしれない。


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