見出し画像

【神道】 神様とは(5) 御霊信仰

この投稿は続きです。よろしければ先に下記の投稿をお読みください。
神様とは(1) ・神様とは(2) ・神様とは(3) ・神様とは(4)

慰撫としての祀り

 受験シーズンに賑わう神社が天神様です。太宰府天満宮北野天満宮を筆頭に全国各地に鎮座し、菅原道真公をご祭神としています。ご承知のとおり、道真公は学問の才に秀でて右大臣まで昇進します。その点だけ取り上げれば、近代、近世の偉人と同様です。決定的に異なるのは、非業の死を遂げたことと、道真公を貶めた人々に怪異が起きたことです。
 道真公と同様に、非業の死を遂げてから現世に怪異を及ぼした人物では、崇道天皇(早良親王)、平将門公なども有名です。人々は、非業の死を遂げた方を慰撫するために社殿の造営や祀りを執り行いました。そして、怪異(祟り)が鎮まってほしいという現実的な利益を願ったのです。つまり、マイナス状態を平常に戻すための行為でした。改めての確認ですが、「凄い存在は全部が神」は人々にとって不利益をもたらす存在も対象なのです。
 このように、社会不安を引き起こす霊的な存在を御霊(ごりょう)と呼び、慰撫としての祀りを行う信仰を「御霊(ごりょう)信仰」と呼びます。

御霊信仰の始まりと転換

 奈良平安時代にはさまざまな疫病が発生しました。そのマイナス状態を回復するために御霊信仰が始まったと考えられています。当時の人々は、疫病の流行は霊的存在が外からやってくるためだと考えました。そこで、原因となる霊的存在を丁重にお祀りして、都の外へ出ていってもらうお祭りを始めました。これを御霊会(ごりょうえ)と呼びます。
 御霊会が始まった頃(平安初期)は、疫病を引き起こす霊的存在に個性はありませんでした。しかし、貞観5年(863年)の疫病は崇道天皇の祟りであるとされ、厄災と個性の融合が始まります。しかし、この段階では神社は建立されず、御霊会が営まれるだけだったようです。
 時代は下って延喜3年(903年)に菅原道真公が没したのち、社会不安が起こります。朝廷内での議論や民間へのご神託(神様からのお告げ)などを経て、天暦元年(947年)に北野天満宮の創建へとつながります。また、同時期には祇園社(現在の八坂神社)で祇園御霊会が定例化していき、御霊が同一の場所で祀られる体制が整っていきます。こうして「何かしらの凄いことをした人物」を神として祀る素地が成立しました。

神様観の変遷と類型

 現代の私たちは「神様はすごい存在だけど、意外とたくさん居て、それなりに接する機会がある」という認識があり、凄いことをする人への賞賛として「神」を用います。この認識を遡ることで確認できた神様観の変化を簡単にまとめます。

 平安時代に、菅原道真公など非業の死を遂げた人物を慰めるためのお祀り(御霊信仰)が始まりました。室町時代に吉田兼倶公が神道形式の葬儀(神葬祭)を打ち立て、人を神として祀る形式が整います。そして、子孫やコミュニティを守っていくことを願う人たちは神として祀られることを望み、実行されました。明治になり、国家の体制が変わると、民衆は偉人たちを神として祀りたいと望むようになり、実行されました。

 時代の変化とは、認識の変化です。言い換えれば「常識が変わる」ということでしょう。同一の神様も時代によって認識が変わっていきます。そうした変化に目を向けてご由緒を読まれると面白いと思います。

神様の類型
 さて、当シリーズで触れた神様たちは実在の人物です。このような神々は、「文化神」の中の「人間神」にカテゴライズされます。 

 ただし、この類型は便宜的であり、神道の神様は多面性を持っています。先述の道真公は人間神ですが、天候に関係する自然神でもあり、学問の神という職能神の要素も持ちます。これも歴史の変化による、神様と人々との関係性の変化が影響していると考えられます。
 さて、次回は当シリーズの最終回「神様となる条件」を投稿します。

記事の下にある「♡マーク(スキ)」は、noteのアカウントを持っていなくても押すことができます。この記事が面白いと感じたらぜひ押してください。

店主略歴

 広告代理店とデザイン会社の勤務を通じて日本文化に関心を持つ。國學院大學へ入学、宗教学(古代神道、宗教考古学)を専攻。神社本庁の神職資格(明階)を取得し、卒業後に都内神社にて神職の実務経験を積む。現在は家業の薬店を経営。登録販売者資格保有。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?