『十一人の賊軍』(白石和彌監督/24年11月1日公開)
ネタばれ含みます。
舞台は明治時代の始まり、戊辰戦争下の新発田藩(現在の新潟県新発田市)。
薩長を中心とする新政府軍を支持するか、地縁のある奥羽越列藩同盟に与するか。あえて曖昧な態度を貫き出来るだけ領内に戦火が及ぶことを避けようとしたのが新発田藩の首脳陣で、状況が進むにつれ新政府軍の優勢が明らかになると、加勢を迫る奥羽越列藩同盟に対して距離を置く必要が出てくる。
そうした中でトカゲのしっぽ切りとして用いられたのが本作の主役となる「決死隊」であり、新発田城下に囚われていた十人の罪人がその構成員。それがどうして「十一人の賊軍」となるのかが見どころ。
W主人公の一人、新発田藩の侍である鷲尾兵士郎(演:仲野太賀)がとにかくカッコ良い(殺陣の際に見せるポーズはTシャツ化希望)。『鬼滅の刃』(吾峠呼世晴/集英社)に登場する炎柱・煉獄杏寿郎のようなキャラクター性、イズムとスタイルを感じる剣士だ。
兵士郎は罪人を率いて新発田藩の要所にある砦の防衛を担うが、危機を乗り越えるうち彼らの過去や生身の姿に触れていくことになる。
兵士郎は足軽だが、侍の端くれ。生まれが悪ければ侍や豊かな商人から奴隷のように扱われた時代でもあり、罪人の中には単に咎人として責められない人間もいる。一方で兵士郎が守るべき存在と信じていた藩首脳は合理的で、組織優先。戦火が迫る中で、身分の低い人間は肉の盾に過ぎない。冷徹無比だ。
防衛線の最中、兵士郎の目の前では罪人たちが次々に死んでいく。城で生活する首脳陣が振りかざす「論理」の脆弱さは、ついに彼を「発狂」へと至らしめる。
タイトルには「賊」という言葉が躍るが、生き死にだけで言えば戦に勝ったのが官軍で、負けたのが賊軍ということになる。常に歴史を作るのは勝者であり、それは言葉のみを用いて書かれる。だからこそ歴史には、絶対に嘘がある。「論理」や「組織」は勝敗以前に、人間の脳の構造にあわせて単純化されている。
兵士郎は「官軍」が迫る中で、罪人たちと肩を並べて命のやり取りをする。そこには現実がまるごと存在している。血と汗が流れている。言葉に置き換えることなど絶対にできない。この『十一人の賊軍』はそれを映像として、限りなくありのまま切り取っていると感じられるシーンがいくつもある。
映画を観たのではなくて、入ったという感覚。恐怖に震え、怒りや哀しみに身をよじる。身体が動く。
これは言葉で人に説明するようなものではないと思う。是非映画館にいってみてほしい。