森川嘉一郎『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』(2008年刊/幻冬舎文庫)
コロナ禍、そして21年の東京五輪を経て変容を続ける東京。
中でも際立った存在感のある秋葉原という街を入り口に、個人の意識(脳)と経済(金)、都市変容(表象)のリンクを辿るダイナミックで色褪せない一冊。
「個室空間の都市への延長」が一つのキーワードで、アニメやマンガといった趣味(欲望)と、都市や建築という表象をつなげて理解することができる脳みそハック本。
文庫版の解説(精神科医・斎藤環さんによるもの)を読むと、当時非常にセンセーショナルな本だったということが伝わってくる。
今でこそオタクは大衆化して(こういう話をすると私は違うんです!みたいな人がいるけど、顕在的にはオタクが少数民だった時代における政治や代理店のような巨大資本による弾圧についても本書で補強されているところ)、秋葉原ではそのイメージを利用したビジネスが目立つ。
コスプレ系の飲食店が軒を連ね、訪日外国人にとっては人気上位の観光地。彼らにとってはいまだに「電機の街」でもあるらしい。
そしてこの本に書かれた当時の秋葉原に集っていたオタクたちは、もう既にこの街にはいない、ということなのだろう。
どうでも良いけど秋葉原って隅田川と神田川に区切られた場所にあるせいか、冬に訪れると「寒そう…」という印象が強いのだよね…。
「個室空間の都市への延長」
「生産と消費の融合」
「下方志向性」
リンク先の要約が端的で非常にわかりやすい。
著者はこの出来事を、タイトル通り、『趣都の誕生』として位置づける。60年代の西新宿のような「官」主導の都市開発、80年代の渋谷や池袋のような鉄道系大資本による「民」主導の都市開発にとってかわるように、秋葉原では「趣味」ないし「人格の偏在」を理由とする「個」主導の都市形成が起きているのだ、と(太字リンク先からの引用、以下同)。
都市形成の歴史。
他方のオタクの喪失とは何か。著者によれば、輝かしい〈未来〉の喪失、70年代ごろに起きたとされる科学と技術がもたらす輝かしい〈未来〉というビジョンの喪失にもっとも影響を受けた人々がオタクである。
オタクは、著者の把握するところ、上位の文化的権威に自らが染まるのではなく、それを自己にとりこみ、逆にそれを換骨奪胎して自分色に染めてしまうという「内向的」な人々である(逆に上位の文化的権威に染まるのが「外向的」な人々ということになる)。
家電がもたらした〈未来〉というフロンティアの喪失⇒アニメやゲームのようなフィクションにそれを見出すのが先鋭的で内向的なオタク。逆に外交的なタイプは「海外だ!」「AIだ!」という大号令に右向け右!であると。
内向型が生み出したイノベーションが資本によって大衆化され、高いビルが建つ。文明のいたちごっこですね。
この事態は「建築の運命」と深く関わっている。というのも、建築とは、「シェルター」機能を持つ建物に、何らかの価値―宗教的な信条、国家の威信等々―を「表象」する機能を合わせたもの—つまり、オタクにおいて分離されているものの統合体—だからである。
このようなものとしての建築は、建築物は建造に多くの資金や労力が必要な代わりに耐用年数が長いという性質上、広く社会的に共有され、長期間にわたって支持され続ける「価値」を前提とする。そうでなければ建築によって表象するのはコストが見合わない。これが建築の中の建築が「宗教的な建築」である理由である。
ところが、資本主義はそのようなあらゆる長期的な価値を相対化していく運動である。それゆえ、もう一度「喪失」に話を戻すならば、とうとう70年代に科学や技術が実現する輝かしい〈未来〉という(最後の?)共通の信念が失われた後では、もはや建築は可能ではないのだ。
現在では、シェルター機能と価値の表象機能を統合する「建築」なるものはコストに見合わず、建造物はシェルター機能へと還元され、そのうえで、ポスターや各種ディスプレイがその時々の、いまや必然的に移ろいやすいものである価値の表象を行うのが合理的なのである。
簡単に凹凸で言えば凸の価値観の人間は、金を稼ぐと外に向けて「どうだ!」と凸な建物を作る。
逆に凹な価値観の人間はシェルターにこもって、ポスターやディスプレイで内側を装飾する。
資本、そして今やそれ以上に重要なデータというのも価値を相対化していく。
そうすると意外なことに(?)、相対性に重きを置く凸な人間は困ったことになる。
逆に凹な人間はそもそも内側に掘っていけばよいだけ。
こうなると用済みになりつつある資本は緩やかに解体されていって、凸な人間は地上で野性化し、凹な人間は地底でR&Dをする、という二面世界が足元に見えているんでしょうか。