
「コーヒーの蒸らし」は無意味か、そして香りは情報か実体か
毎朝、コーヒーを豆から挽いて飲んでいる。忙しい時間のささやかな贅沢だ。1日を始める儀式と言ってもいいかもしれない。
そんなコーヒーを美味しく淹れるにはどうすればいいのか。ググってみると、時に互いに矛盾する大量の情報が検索結果に表れる。どうしたものか。
京都というコーヒーの都
私の住む京都は、コーヒーの消費量がパンと共に日本一だ。和食のイメージのある京都だが、多くの京都人は朝食にパンとコーヒーを選ぶ。
イノダコーヒーを筆頭に昔ながらの喫茶店がモーニング営業を行い、京都人たちが紙の新聞を読みつつタバコをくゆらせ、ゆったりとした時間を楽しむ姿を今も見ることができる。
そんな京都には、大小様々な個人経営のコーヒー焙煎所がある。わざわざ田舎から買いに来る人のいる有名店もあるし、地元の人相手のローカル感にあふれた店もある。
私が使っているのは後者だ。100グラム300円ちょっとの安い豆を買い、毎朝家で挽く。ペーパードリップしてククサで飲む。村上春樹流に言えば、これは「小確幸」のひとつだ。
コーヒーを巡る互いに矛盾した無数の蘊蓄のこと
コーヒーを美味しく飲む方法、そんな情報はいくらでも転がっている。楽して稼げる副業や手軽なダイエット方法、婚活で成功する方法と同じように。
問題はそれらが少しずつ違い、時に互いに矛盾することだ。それぞれがもっともらしいエビデンスと権威をまとった蘊蓄として正当性を明に暗に主張する。
コーヒーを淹れて飲むまでに関わるファクターは多く、それぞれのもたらす差が結論の違いとなることは否定しない。だが結果的に私たちの目の前に現れるのは広大な迷宮だ。
なので、ここでは話をひとつに絞ろう。コーヒーの蒸らしだ。
コーヒーは蒸らすべきか否か、それが問題だ
コーヒーを挽き、ペーパードリップに入れ、お湯を注ぐ前に少量のお湯をかけて20秒から30秒蒸らす。
これがコーヒーを美味しくするという。コーヒーに関するサイトではよく見る話だ。
一方で、簡単に判別できるほど味は変わらないとする論もある。
ブラインドテストではほぼ判別されなかったという指摘もあり、いわゆるプラシーボ効果にすぎず、情報を飲んでいるだけだとする。
どちらもそれっぽいし、ありそうな話だ。
しかたないのでこの件についてパートナーに意見を求めてみたところ、示唆に富む答えをもらえた。
それは情報ではなく香りという体験だった
パートナーの話はこんな感じだ。
端的に言って、味の違いは分からない。だけど蒸らしていると、部屋中にコーヒーの香りが漂ってくる。
つまり、そういうことだ。私達は単にコーヒーという飲み物を飲むだけでなく、先触れとして部屋に漂うあの素晴らしいコーヒーの香りまでを含めた体験を享受していたのだ。
ここにあるのは「こうすればコーヒーは美味くなる」というノウハウ的な情報ではなく、漂ってくる香りである。
もちろん「全ては情報に過ぎない」とシニカルに開き直ることは可能だろう。だがそれはコーヒーの味すらも情報に還元する行為で、文字通り「味気ない」行為でしかありえない。
であれば我々はここで論を進めんとする足を止め、これから運ばれてくるコーヒーを予感させる先触れとしての「コーヒーを蒸らす香り」を存分に味わうべきなのではないか。