斜に構える
正論は何よりも刺さる。
そのことに気づいていなかった当時の私にとって、正しいということが何よりも大切でした。
正しさは何よりも強い。
年齢も地位も、そこでは全くの無力なのです。
私はいつからか、どれほど目上の人に対してでも毅然とした態度でいれるようになりました。
むしろ、年齢を見ずに私自身をちゃんと見ろ、評価しろ、と。
誰よりも清く生きている自信がありました。
高校一年のある日。
ある教師は私にこう言い放ちました。
「お前の社会を斜に構える姿勢は素晴らしい。」
何を言っているんだこいつは、心底そう思いました。
社会に真正面から当たっているからこそ、鋭い意見も出るのです。
真実を主張した後に言われたその言葉に、私はひどく失望しました。
「ただでさえ大人、さらには教師だろう、尊重のかけらもないな」
周りとは少し違った、対大人になってしまいました。
責任のなさに対する怒りは人並み以上に強いです。
どんな小さなひとことであっても責任は持たなければならない。
本当にその言葉は、しっかりと考えた上で出た言葉なのか、後の影響をしっかりと考慮した上で言っているのか、と内心思いながら、怒りがバレないようにしています。
そんなに責任を重く見ていて大変ではないのかと尋ねられたこともありますが、もちろん堪忍袋に仕舞い込んでいるだけです。
嫌な人間ですね、私なら仲良くしたくない。
今なら分かるんです、正論が一番痛いって。
だから我慢をしますし、自分を嫌な人間だとも思う。
しかし、嫌な人間でよかったなとも思います。
少なくとも私の口からあの教師と同じ言葉が出ることはありません。
もっと嫌な人間にならずに済むのです。
でも、正しさが逆に働くのはどう考えてもおかしいのです。
「正しい」が「間違い」
これを当たり前に強要してくる事象は案外多いです。
正直者が馬鹿を見る。
そうならないようにすべきなのに。
正直な子に育ってね、という言葉はどこに消えてしまったのでしょうか。
嘘はついちゃ駄目なんでしょう、同調圧力に負けてんなよ、と。
誰しも一度は通る道で、こっちは駄目だよと教えてあげられる大人が一人でも多く増えれば良いなと思っています。