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「釣り方」を教える前に、魚の「うまさ」をどう伝えるか

「魚を与えるのではなく、釣り方を教えよ」という中国の古い格言がある。老子のものと紹介されているけれど、実際は出典はよくわかっていなくて、どこの国のものなのかもわからないのだとか。でもとかく教育や人材育成の文脈でよく引き合いに出されて、僕もしばしば授業でお話ししたりする。「目的」と「手段」をめぐるメタファーである。

通勤中の車内広告にこの格言が使われているのを目にして、色々と連想していた。大学の授業で、レポートの書き方、テキストの読み方、プレゼンの仕方、資料の調べ方や実験や調査の進め方などなど、学びの「方法」、いわば「魚の釣り方」をお伝えしている。それを面白がってくれる学生がいてありがたい話なのだけれど、うまく届けられていないのかなぁと感じることもままある。

僕の力量不足もあるけれど、釣り方を学ぶ“動機“の部分というか、その熱意みたいなものをお伝えするのはとっても難しい。「学習の動機づけ」をどう高めるかというのも長年の議論があって、それこそ学習心理学の範疇である。自分自身の「やる気スイッチ」ですらいつでも探しているくらいなのに、学生諸氏のそれとなれば、尚更難しい。

「魚を与えるのではなく、釣り方を教えよ」をめぐってよくある批判のパターンとして、まずは「飢えてる人にはまず食べさせろよ」というのがあるけれど、現状、日本のような情報の飽食時代、いくらでも時間が潰せるこよご時世に、最初から学びに「飢えている」が人がどれだけいるか。自分の専門である心理学は比較的ポピュラーな分野ではあるので関心を持ってくれる学生は多いとはいえ、「飢えている」というような人はそう多くはない印象である。

とはいえ案外、みんなお腹が空いていることに気がついてないのでは?と思ったりもする。ゼミなどで探求学習のような自分でテーマを設定する課題をすれば、いったん始めると比較的多くの学生が楽しんで取り組んでくれるし、じっさいそういう感想も多い。いくらでも食べられるテーマなので、みんなプレゼンも達者だったりする。

ひとくち、その「うまさ」に気がつけば、きっと魚を釣ってでも食べたいと思うかもしれない。
少なくとも、魚の味を知らない人が、釣り方を学ぶはずがない。
どのように心理学のその「ひとくちめ」を味わってもらうかが目下のところの僕の課題である。

まだまだ試行錯誤の連続ではあるものの、どうやって「魚の釣り方」に関心を持ってもらうか、授業で1つ心がけていることがある。
それはまず、自分自身が「目の前で魚をうまそうに食ってみること」。スポーツでも楽器でも、人が楽しそうにプレイしていると、「いいなぁ、混ざりたいなぁ」と感じることもある。目の前で美味しそうに魚を食べられると、お腹が空いてくることもある。

そんな眼差しをしているうちに、ぜひひとくち。実習のある科目であれば「体験」に勝るものはないし、そうでなくても、日常で出会いうるような事象や疑問にいかに「うまみ」があるのか実際に食べてみる。
目の前で「学ぶこと」を面白がる。そんな青い理想があるのだけれど、思い返せば自分が大学生の時、面白いなぁあと思って受けていた授業は、他ならぬ教員が1番楽しそうな顔をされていたっけ。

「釣り」自体ももちろん楽しいものだけれど、いきなり釣竿を渡されても困惑するのは当然。まずは釣りをする手前で、魚の「うまさ」をどれだけ伝えられるのか、そんなことの試行錯誤の日々である。

学び自体が「目的」になるのには時間がかかる。まずはどう「手段」にするか、水面下の魚の味を思い描いてもらえるか、その工夫を探っている。実際には、どんな魚が釣れるかなんて、誰にもわからないんだし。「海の怖さ」を知るのも大切だけど、ゆっくり伝えればいい。魚が釣れない時間の楽しみ方こそ、先達は熟知している。

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