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長すぎる自己紹介

こんにちは

 今回は10記事目にして初めて、自己紹介をしていこうと思います。書いてるうちに長くなりました(笑) 

 カッコいい経歴はありませんが、自分が“どんな失敗や成功”をして、“どう思ったか”を改めて認識するために書いていこうと思います。

 97年の1月生まれ(もうすぐ誕生日!)で男3兄弟の長男です。

幼少期

 外に出て遊ぶのが大好きで、動物園に行ったときは必ず迷子になる好奇心旺盛な子供でした。

 家族で和歌山にある”とれとれ市場”を訪れた際には、やはり迷子になり、親が見つけた時に、大きな水槽の前でお姉さん2人と写真を撮っていたという、クレヨンしんちゃんばりのエピソードがあります(笑)

自分にもこんなにかわいい時代がありました(笑)


小学生時代

 低学年の頃は太っていたことで、軽いいじめに遭っていて、休み時間に仲間はずれにされたり、下校時に悪口を言われ家で泣いたこともありました。

 一方、1年生から始めた野球ではエースで4番。周りよりも上手かったので、味方がエラーをすると「何やってるんだ!」とマウンドで怒りを露わにするサイテーな選手でした。今思えば、いじめられてたストレスをここでぶつけていたのだと思います。

チームプレー理解してない自己中でした…


 5年生の時この態度にコーチにこっぴどく叱られ、自分のやってきた態度がもの凄く恥ずかしいことだと反省し、「みんなで上手くなろう」と放課後に公園で野球部の仲間と一緒に練習を企画したりしていました。

中学時代

 中学でも野球を続けてました。一つ上の先輩方がヤンキー漫画に出てくるようないかつい人ばかりで、ビビって仲良くなれませんでしたが、先輩たちの最後の夏の大会で、スタンドから必死に応援した記憶があります。

 この頃から、”頑張ってる人をを応援したい”という自分の大事な部分が形成されたと思います。

 また、野球部内でA君とB君が喧嘩をして、部全体が2人に気を使っていた時があり、「2人と仲が良い僕が仲裁するしかないだろう!」という使命感に駆られ、仲直りできるように注力したのですが、思うようにいかず、A君から僕も嫌われてしまうような事がありました。

 このことを母親に相談すると、母親は涙を流し話を聞いてくれて(僕も泣いていました)「親身になって話を聞いてくれると、安心するな」と体感し、自分も”相手の立場に立って考える人になろう”と決意しました。


 高校受験の時にはどうしても、学区でトップの長田高校に行きたくて必死に勉強をしました。

 「勉強だけでは内申点は稼げない」と悟った私は、あまり目立つキャラでもないのに学級委員長に立候補したり、みんなが寝ている美術の時間に手を挙げて発表したり、出来る限りの手を尽くしてなんとか合格する事ができました!

 この経験が”自分は頑張ればできる!”と後のプライドの高さにも繋がる成功体験になりました。

高校時代

 念願の高校に合格できたものの、勉強に全くついていけず、自分に自信がなくなりました。

 「勉強はできないけど部活は頑張ろう!」と野球は必死にやり2年生の時に遠征に連れて行ってもらうなど、期待されていましたが、やはり”周りは勉強できるのに自分はできない”というのがネックで、3年生でレギュラーとして活躍できたものの、物足りない高校時代でした。

 この頃から自信のなさや、周りと比較し落ち込むという自分の悪い部分が育ってきたように思います。

 あの頃に戻れるなら、部活だけでも成功している自分を認めてあげて、とにかく自信をつけさせてあげたいです。そうすれば、勉強も良い方向に向いたと思います。

浪人時代

 勉強を捨てて野球をしていたツケは大きく、しっかり浪人しました(笑)

 浪人時代でも、俺は「長田高校出身だから他のやつとは違うぞ!」というプライドがあり、200人規模の予備校でしたが誰とも喋らないトガりを見せていました。 

 他にも、最初から私学専願にしていればまだ戦えたのに、高校の同級生の多くがストレートで国公立大学に行っていたため、「私学専願は逃げだ!」とプライドと自分への期待度の高さのダブルパンチで茨の道を進みました。

 結果、国公立はダメでしたが、なんとか立命館大学に合格する事だできました。

大学時代

 ”浪人して私学”ということにコンプレックスを抱えていた私は「大学時代を通して、何かに熱中した経験が欲しい。そうでないと高校ぼ同級生に負けてしまう!」と焦ってい他ので、勧誘を受けた体育会のラクロス部に入部することにしました。

 野球と違ってラクロスはフィールドスポーツなのでフィールド感覚が掴め1・2年生は苦戦しました。真面目な性格なので、見た目は一生懸命でしたが、心は「試合に出れなくてもいいや」と腐っていました。3年生になり「プレーでも人としても、後輩の手本になろう」と奮起しましたが、奮起が遅くリーグ戦のベンチに入ることは叶いませんでした。

 4年生では、プレーヤーを引退し”学生コーチ”として、1年生の指導にあたりました。教えることはもともと好きだったので「上手くできるだろう!」と自信がありましたし、他大学の練習を見学するなど、自分なりに情報を集めて指導にあたりました。

 結果としては、夏の大会では関西で優勝したものの、冬の大会で予選敗退・退部者が続出と散々な結果でした。

せっかくの優勝やのにもっと笑えよ!と言いたい1枚

 ここでの1番の挫折は、人と向き合うことへの挫折です。

 冬の大会に向けて「もっと上手くて、人間的にも成長してほしい」という気持ちが先走り、正論で強制させることばかり言ってしまい、ミーティングのたびに1年生と心が離れていくような感覚がありました。

 また、1対1の面談で互いに心を開きあえたと思っていた子が多く辞めてしまったこともめちゃくちゃ辛かったです。 
(ここでの話はまた書きたいと思います)

 腐ってたやつの話なんて響かないよな。自分は良いリーダーになれなかったな。そんな自分へのマイナスな感情を持って卒業しました。

部活引退後、コミュニケーションを学ぼうと
鴨頭さんのスクールに行きました。

社会人時代

 社会人では、大学時代の部活で「プレーヤー」として活躍できなかった借りを返そうと、研修から積極的に頑張りました。

 しかし、配属先で1つ上に物凄く良くできる方がいらっしゃって、その方と比較し「自分はダメだ」と負の自己暗示をかける日々でした。

 2年目からは異動となり、慣れない環境や上司と馬が合わないなどで心を病み、現在まで休職中です。

 最近、転職活動を始めましたが、社会人になってからの2年間での成果がないことに、今更ながらとても後悔をしています。

まとめ

 振り返ってみると、高校以降の自分の人生は「自分ならできるだろう!」と自分に期待をして、ことごとく敗れている・・ そんな印象を受けました(笑)

 でも裏を返せば、その場その場で挑戦をしてきている人生でもある、と少し自信になりました。(腐った時期もあるけれど)

あと、周りと比較して落ち込むことが多すぎる。 もっと自分を大事に、自分の幸せを優先しいた方が良いと思いました。

 これからは自分を大事にしつつ、チャレンジをやめない人生にしていこうと思います。

 ここで1つ宣言をしておくと、やっぱり自分は”人と向き合うこと”から逃げたくない。大学時代に辛い経験はしたけれど、「個人の自走を促す存在になる」という軸はブラしたくないなと思います。 

 どのような形でこの理想像を実現させるかは、まだ見えていないけれど、この目標に向かって走りたい!そう思います。

長い文章を読んでいただき大変ありがとうございました。











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