【安息の地は牢獄となり】映画『オオカミの家』感想
チリ南部のある施設を脱走したマリアは森の中の一軒小屋を訪れる。そこで2匹の子ブタと過ごすようになったマリアに起きる不可解かつ悪夢のような出来事を描いた映画『オオカミの家』。
本作はチリに実在したコミューン「コロニア・ディグダ二」を題材に常に動き続ける驚異のストップモーション・アニメーションを用いて撮られている。監督はどちらもチリ出身のクリストバレル・レオン、ホアキン・コシーニャの2人組。
邪悪な寓話というべき物語と不気味な雰囲気を携えた本作は『ミッドサマー』のアリ・アスター監督が一晩に何度も本作を観たということでも話題になった。
公開前から楽しみにしていた本作。鑑賞したのは8月19日の初日。場所は川崎のチネチッタ。
場内は何と満席の完売御礼。
ストップモーションアニメでこれだけカルト的な内容なのに満席というのは凄い。これはブームがくるか…?
客層は様々。
自分の隣は中高年の男性と若い女性だった。退場時には内容について話す大学生くらいの男子2人組を見かけるなど、年齢、性別問わず様々な人が観に来ていた。
場内が満席の場合、映画館のマナーが気になってしまうところだが、こうした作品の初日は「観ることを楽しみにしていたガチ勢」が来ているのでマナーも非常に良かったりする。
静まり返った満席の劇場で楽しんで観ることができたのも有難い体験だった。
さて、映画だがポスターや前評判から恐ろしいと言われていたが、観てみると「怖い」と言うよりは「凄い」というのが第一印象。
ジャンプスケアなど自分の苦手な演出もなくホラー映画に感じるような怖さは感じなかった。
施設から逃亡した主人公のマリア。森の中の一軒家を訪れるとPOVのようにマリアの視点になる(少しゲームのバイオハザードを思い出した)。
ひとたび家に入ると現実が妄想か分からない悪夢のような出来事が繰り広げられる。観客はマリア同様、家に入った時点からこの奇妙な空間に囚われることになる。
驚いたのは動き続けるアニメーションとその表現方法。予告編でも映像の一部は観ていたが、まさか終始動き続けるとは思ってなかったので驚いた。
製作に5年もの歳月を費やしたというのも納得の凄さ
(どうしてこんな表現方法を用いたのか?ということについては監督がインタビューで語っているのだが内容に触れるため下記に記しておく)。
家の壁や床を使って登場人物たちの姿形や心情を描いているところが斬新で面白い。まるで動くアートを内側から体感しているような感覚を味わえる。
この映像体験はアートが好きな人や携わってる人には特に刺さるんじゃないだろうか。
「閉塞的な世界観のストップモーションアニメ」ということで、ジャンル的にはヤン・シュヴァンクマイエルやブラザーズ・クエイの系統にはなると思う。だが、自分はこの2人の作品ほど本作から不条理さや良い意味での気持ち悪さは感じなかった(どちらかというと同時上映している『骨』の方がこの2人の作品っぽい)。
自分がそのように感じたのは、本作があるコンセプトに基づいて作られているからかもしれない(内容に触れるため詳しくは下記で)。
狂ってはいるし「?」の連続で不条理っぽさもあるんだけど、終わっていると前評判で言われてるよりも理性的な作品のように思えた。
間違いなく観る人を選ぶ作品ではあるけど、映像表現含め一見の価値はある。
それにミニシアターが次々閉館してくこのご時世、これだけカルトな作品が大きなスクリーンで観れる機会もそうそうないので、気になる人はこのチャンスを逃さない様に。
※これより以下は内容に触れています。未見の方はネタバレにご注意ください
なぜあれだけアニメーションが動き続けるのだろう?と思ったが「崩壊と再構築が永遠に続くような映画を撮りたかった」という発言を読んで納得。
自分はこの家はマリアの心象風景を表していると感じたからだ。
人は見た目こそ変わらなくてもその心の中は変化し続ける。実際は変化し続ける肉体と精神を表現してるらしいが、自分は家という閉鎖空間の中で狂気を膨らましていくマリアの心のように思える。
本作は考察の余地があり過ぎるくらいの作品なのだが、物語冒頭で語られる言葉を信じるなら、本作はカルト教団が製作したコンセプト映像であるため、結局のところ何が真実かは分からない。
子ブタは何故人間に変化したのか?
食料もない家で何日も生き延びていた理由は?
マリアは本当に助け出されたのか?
そもそもマリアという人物は実在するのか?…など疑問を挙げればキリがないが全ては謎のまま。
それでも本作が一つの寓話のような物語になっている点には注目すべきだろう(教団にとって都合の良い内容ではあるが)。
安住の地だと思った隠れ家はいつの間にか牢獄に変わっていく。愛すべき存在であった豚はいつしか牙を持つオオカミへと変貌する。
この皮肉的な物語が大好きだ。