【私たちは物語と共に生きている】 映画『アラビアンナイト 三千年の願い』感想
映画『アラビアンナイト 三千年の願い』は「3つの願い」から始まる女性学者と魔人を巡る物語だ。
監督は『マッドマックス』、『ハッピーフィート』シリーズのジョージ・ミラー。
主人公の学者アリシアを演じるのは『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』、『MEMORIA メモリア』など多くの映画作家から愛されるティルダ・スウィントン。瓶の中に封印されていたジン(魔人)を演じるのは『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』、『ビースト』のイドリス・エルバ。
「3つの願い」の原点といわれる『アラジンと魔法のランプ』をもとにしたイギリスの短編小説『ザ・ジン・イン・ザ・ナイチンゲール』の一編が原作になっている。
願いを叶えてもらう側のアリシアが(この話を知ってるため)懐疑的になっていたり、ジンのバックボーンに焦点が当てられていたりと、現代的にアップデートされている点が捻ってあって面白かった。
本作はジョージ・ミラー流の物語への愛を綴った映画だと思う。
映画は「なぜ人は物語るのか?物語に魅了されるのか?」をテーマに、人が生きていくうえでの物語の必要性について語る。
アリシアの設定からしてそうだ。
彼女の物語論の専門家という職業もそうだし、学生の頃はイマジナリーフレンドを作っている。人生を物語と共に生きる彼女は、この物語の主人公に相応しいといえるだろう。
歴史を見ても、人は災害や流行り病から身を守るために「寓話」という形で教訓を語り継いでいる。身近なところでいえば、自分が映画の感想をnoteに綴ったり、貴方がnoteを読んでいるのも物語っているといえる。人は生きていくうえで誰しもが物語に触れているのだ。
物語の必要性とともに語られるジンの回想パートは、先の読めない展開とファンタジックなビジュアルに引き込まれる。
本作の魅力の1つはビジュアルが最高という点だ。
主演のティルダ様とイドリス・エルバが画になっているのは勿論(実はアリシアとジンは後半まではほぼバスローブ姿、しかもほぼ会話劇だけなのにである)、ジンの回想パートで描かれる『千夜一夜物語』の世界は、まるでおとぎ話を体現したかのような煌びやかさ。
ビジュアルの良さにつられて本作を観たので、自分は、このパートが観てて最も楽しかった。
ジンの回想パートが終わると、それまで聞き手だったアリシアへ語り手が変わる。ここからアリシアの物語が始まる。
本作は好きな作品だが、観終わった当初は不満に感じる点もあった。
それがこの現代パートともいえる後半部分。というのも現代パートからは明らかにパワー不足を感じるからだ。
物語の行方が気になった回想パートに対し、現在パートの展開は良くも悪くも予想通りで単調。煌びやかだったビジュアルも現在パートは弱さを感じる。正直、退屈さを感じる時間もあった。
ただ映画を振り返ると、このパートはアリシアにとって物語ることの本質を突いたパートだということに気が付かされた。
アリシアは孤独を感じている人物だ(かつて結婚していたが離婚していることが明かされている)。ジンも愛する人を失っていることが回想パートで語られている。
アリシアとジン、このパートは、孤独な2人?(ジンの1人称って何だろう…)がお互いが自分の生い立ちや思いを話すことで結ばれる愛を巡るパートだ。
アリシアが物語を追い求めていた本当の理由は、最愛の相手に巡り会うためだったのかもしれない。少なくともジョージ・ミラーはそう描いているように感じた。
そんな本作だが、実は2通りの解釈ができる映画でもある。
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それが「劇中の出来事は全てアリシアの妄想ではないか」という説だ。
そう思える根拠はいくつもある。
映画が始まってすぐ、アリシアは空港で謎の人物にカートを引っ張られている。また、講演会では壇上から謎の人物の姿を見ている。その後の場面では、アリシアが時おり空想の人物を見るという話もしている。
またアリシアはイマジナリーフレンドの話をもしている。
これらのことからアリシアは空想癖(それも強い)のある人物だということが分かる。
これらを踏まえたうえで、映画を振り返ると引っかかる点がいくつもある。
空港内で瓶を荷物検査に通すときの挙動が不審人物のように見える点や、隣人の双子のお婆さんがアリシアに「また独り言?」といっていること、ジンのことを書いたノートの内容がイマジナリーフレンドの時のノートとよく似ていることなどだ。
実際にパンフレットのレビューでは、本作を「孤独な中年女性による妄想映画であるらしい」と評している方もいる。
確かに本作をアリシアの妄想として捉えるのは自然だし、その解釈も一理あると思う。
だが、自分は本作はアリシアの妄想ではなく現実の物語だと考えている。
全てがアリシアの妄想だとすると整合性が取れない場面があるからだ。
アリシアが隣人にジンを紹介するときの場面は、双子はジンに向かって挨拶をしている。
アリシアの空想癖を知っている2人が話を合わせただけかもしれないが、(もしくは戸惑ってて取り合えず話を合わせただけかもしれない)が、目線はジンに向かっているように感じた。
決定的なのは映画のラスト。
飛んできたサッカーボールをジンが蹴って返す(しかもテクニカルに)という場面はアリシアの妄想では片付かないと思う。
本当にアリシアの妄想だとするならこんな場面は不要だ。この場面をわざわざ入れたのは「この話は現実だよ」という監督のメッセージのように思う。
では、何故こんなややこしい演出をするのか?という疑問が浮かぶが、私はジョージ・ミラーが描いたのは「現実と空想が入り混じった結末」だったのではないかと考えている。
本作はアリシアとジンが運命的に結ばれる話だ。
言い換えると、物語(空想)とアリシア(現実)が結ばれる物語であり、物語とともに生きたアリシアが最終的に物語の一部となる話でもある(だからこそ冒頭でアリシアは語り部になっている)。
そう考えると、本作はジョージ・ミラーの物語への愛の物語であり、とてもロマンチックな話だとも思うのだ。
【参考】
※高橋ヨシキ氏、てらさわホーク氏、柳下毅一郎氏のお三方による映画チャンネル。何とこの回ではジョージ・ミラー氏へ直々にインタビューをしている!映画への理解が深まるので必見!
※原作となった小説集。邦訳されてないのが残念。