大人になれない世界で
1994年、アメリカで『フレンズ』というTVシリーズがスタートした。『フレンズ』では、社会に出たけれど、どこか大人になりきれない20代〜30代の登場人物たちの生活や恋愛が中心に描かれていた。
かつては、アメリカにも日本にも「大人」がいた。働き、結婚し、家庭を持ち、決して全てに満足しているわけではないが、それでもなんとか生きている大人たち。私が子供の頃にも、まだ大人は居たように記憶している。
その頃の社会の中には、子供にはなんだかよく分からない大人だけの居場所があった。スナックなどは小さな私にとって、怖いと同時にどこか憧れの場所でもあった。大人になるとは、おそらく重荷を背負って我慢することなのだろうと思わせるさまざまな徴がそこかしこに存在していた。そして、そういう重荷を時に肩から下ろす場所が社会の中に用意されていたように思う。
しかし、今は大人になれなくなった時代だと言われる。これは思想史では「ポスト・モダン」という(かなり使い古された)言葉と関係している。ポスト・モダンという時代の特徴は「大きな物語」が終焉だ、と言われる。大きな物語とは、皆がそれを信じ、それを前提に考え、行動する常識のようなものだ。(ちゃんと理解したい人はリオタールの『ポスト・モダンの条件』や現代思想周りの概説書をチェックしてください。)
かつては、人間の社会はより未発達な状態からより発展した社会へ進んでいるという「物語」を皆が信じていたし、誰もがその物語の登場人物として振る舞っていた。新しい技術は人間社会をより豊かにし、昨日と比べて今日の世界はより良くなっていると信じることができた。
しかし、そうした皆が信じられる物語が崩壊してしまった。それがポスト・モダンだ。皆が共有している物語が無くなった。これは一時期、解放的なことだと考えられ、喜ばれた。確かに、「女性は家で育児と家事に専念するのが当たり前」というようなかつての物語の崩壊は女性の権利運動にとって喜ばしいことであるには違いない。
だがこれは同時に大人が消滅した、ということでもある。かつては大人の女性とは結婚し、家庭を持つ人物のことだったが、そのような女性像が否定され、多様な生き方を肯定した結果、いわゆる「大人」という存在が社会から消えたのだ。
私はなにも、昔のような社会に戻るべきだと言いたいわけではない。そんなことは出来ないし、すべきでは無いだろう。しかし、どこかで昔とは違うやり方で「大人になる」ことが必要だろうとも考えている。
かつては大人になるということは、「折り合いをつける」ことだった。女性であれば、やりたい事を我慢し、皆が信じる物語の中の女性像と折り合いをつける。働きたいのを我慢し、結婚し子を産む。自分を社会に合わせる、個人の生を社会の物語に合わせることが大人になることだった。
以前の社会では抑圧が大人を形作ってきた。それに対して今の社会は抑圧から解放されつつあるかに見える。会社の飲み会は強制参加ではないし、好きなように生きようと思えばそうできるようになってきているのは確かだ。しかし、皆が納得できるストーリーを失った後、どんな物語にも属さない個人は生き残れるのだろうか。
今は、かつて皆が信じていた「進歩」・「経済成長」・「物質的豊かさ」といったストーリーを頭から信じる人はあまりいないだろう。しかし、その代わりにフェミニズム・LGBT・BLMさらにはアニマルライツのような「権利の平等」、「田舎暮らしの豊かさ」などさまざまな小さなストーリーが乱立している。
いまは個人個人が自分の好みに合ったストーリーを選択し、そのストーリーの中を生きる時代になった。大きな物語が全員に強制されていたのと異なり、小さな物語は個人の選択したものだ。これは本当に解放的な事態なのだろうか。
私はこれはいささか逃げ場のない社会ではないかと思う。個人の人生が自発的選択によって営まれるという考えは、一切の責任を個人に押し付けることになりはしないだろうか。「田舎の豊かさ」を信じ、移住したが、どうも上手くいかない。この責任はそのような生き方を選択した個人に帰せられることになる。
一切の強制が無くなった代わりに、全てが自己責任になった社会。今はスナックで、「こんなはずじゃなかった」と愚痴をこぼすことすら出来なくなった社会なのだ。なぜなら、そうした状況を招いた責任はあなたにあるということになってしまうからだ。かつての大人たちには逃げ場があった。
各々が自分の好きな信念を選択できるのは良いことだろう。noteでも大人になる事を否定したり、疑問視する文章を良く見かける。しかし、そうした自由と引き換えに失ったものについて考えることも必要ではないだろうか。
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