なぜeスポーツは批判されるのか(解説)
さて、皆さんはeスポーツはお好きですか?最近ではゲームに関するテレビ番組もありますし、またネットのストリーミングではゲーム実況は最も多い配信コンテンツになっています。
以下、この記事ではeスポーツという言葉ををオンライン上の同一のプラットフォームに複数のプレイヤーが参加できるタイプのゲームを指すことにします。
そのようなeスポーツに対しては様々な批判が見受けられます。そうした批判は、スポーツと呼ぶことへの違和感であったり、あるいは対戦相手を殺すタイプのゲームに対する批判であったりします。しかし、これらの批判はeスポーツに対する多くの人の違和感を明確に説明できていません。以下では従来のスポーツとeスポーツの構造的な違いを解説してゆきます。
さっそく、eスポーツとサッカーなどの従来のスポーツの比較と分析に入っていきましょう。この二つの違いを考えるうえで、哲学者・精神分析家であるスラヴォイ・ジジェクという人の"zizek's joke"という本の中にヒントとなる話があるのでご紹介しましょう。
ある独裁国家で、民衆の間に独裁者を馬鹿にするようなジョークが流行っている。そこで独裁者は部下たちにジョークの作者を捕らえて罰せよと命じた。このようなシチュエーションに対してジジェクは次のように述べています。
「ジョークに作者がいるはずだ、という考えはまさにパラノイア的である。つまりそれはまるで言語の底知れない偶発的な生成力が、それを支配し人知れず裏で糸を引いている行為者に人格化され、局所化されるべきであるというように、匿名の象徴的秩序についての《大文字の他者の大文字の他者》がいるはずだということを意味する。」(Slavoj Zizek. "zizek's joke", 2018, MIT Press p. vii)
ここではジョークとされていますが、都市伝説や噂話も同じです。誰もが知っているジョークや噂話は普通、作者を特定することは出来ません。誰が考え出したのかがはっきりしているものは、都市伝説とは言えないのです。それは特定の人物の考えだした陰謀論やオカルト話ということになってしまいます。ある話が噂話あるいは都市伝説と呼ばれるためには、作者が存在しないことが何よりも重要なのです。言い換えればそれは誰のものでもないということです。
ここでスポーツの話に戻りましょう。サッカーのような従来のスポーツは都市伝説や噂話、ジョークのような構造を持っています。どういうことかと言うと、都市伝説と同じくサッカーにも作者が存在しないということです。また都市伝説や噂話のようにサッカーにもバリエーションが存在します。FIFAの公式ルールで行われるのもサッカーですし、子供が公園で5対5で行うのも同じサッカーです。
確かにサッカーの公式ルールを決定しているのはFIFAですが、FIFAがサッカーというスポーツの作者であり、所有者であるというわけではありません。子供が公園でサッカーをする際に、FIFAにサッカーをしていいか許可を求めたりしません。子供たちは小さな公園でサッカーをしながら、自分たちなりのルールを創っていきます。このように従来のスポーツではプレイヤーは同時にクリエイターとなりうる可能性を常に含んでいます。そしておそらくサッカーというスポーツ自体がそのような創造的な力によって生まれたはずです。
それに対して、eスポーツは明確に作者・所有者というものが存在しています。それはゲームを開発した企業です。したがってeスポーツはプレイするために、作者にお金を払ってプレイする許可を得なければなりませんし、勝手にゲームを改造して自分なりのルールの変更を行うことも許されていません。
つまり、サッカーなどの従来のスポーツとeスポーツの構造的な違いは、「特定の作者や所有者が居るかどうか」、「創造性を発揮する余地があるかどうか」という点にあるのです。
作者や所有者が居ないというと、何だかモヤモヤするかも知れませんが、身近な例だと、日本語や英語などの言語も同じ構造を持っています。日本語の開発者や所有者を探し出すことはできません。実は、このような作者の不在という状態は非常に安定した状態なのです。というのも、特定の作者や所有者によって勝手にルール変更される心配がないからです。明日から日本語そのものを変えたりすることのできる個人は存在しません。しかも、誰のものでもなからこそ、独自に面白い言葉の使い方を考えたりする、創造性の余地が無限に存在しています。
(ジジェクが「言語の底知れない偶発的な創造力」と呼んでいるのはこの創造性の余地のことです。)
それに対して、作者や所有者のはっきりしているゲームでは、新たなルールをプレイヤーが創り出すことは出来ず、作者による気まぐれのルール変更という恐怖が常につきまといます。実際に、オンラインゲームなどでは突然の仕様変更などはよくあることです。さらに言えば、作者が意図的にそのゲーム自体を消滅させることさえ可能です。
つまり、従来のスポーツは①明確な所有者や作者を持たない。②プレイヤーが創造性に対して開かれている。という自然言語に似た特徴を持つのに対して、eスポーツは①明確な所有者が存在しており、②プレイヤーに創造性の余地がない、と言うことが出来るのです。
したがって、プレイヤー=クリエイターあるような従来のスポーツに対して、プレイヤー=消費者であるeスポーツという構造的な差異があるのです。eスポーツに対して多くの人が違和感をもったり、批判しているのはこの構造的差異を感じており、eスポーツにおけるプレイヤーが純粋に消費者としてしか参加出来ないということに対する批判ではないでしょうか。
われわれはサッカー選手や公園でサッカーをしている子供達を消費者とはみなしません。しかし、コンピューターゲームのプレイヤーは創造性に対して開かれていないという点で完全に消費者です。人間はこれまでスポーツという言葉で創造性に開かれたプレイヤー達の参加するゲームを指してきました。eスポーツに対する批判はそのようなスポーツという言葉を単なる消費者のためのゲームへと転用していることに対する批判であると考えることができるのです。
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