嗤う者
柴燈護摩に行くと観客の様々な表情をみることが出来る。
歳を重ねるたびに、自分の成長の目線ごとに見える景色が変わる。見る側の意識が表面に現れている。
柴燈大護摩供は野外で行う大規模な法要で、道場を作り、大きく燃え上がる炎の中で、火渡り修行が執り行われます。
自分は毎日火を渡ってます!
なんて人はなかなかいないだろう。
人生に一度、生脚で火を渡る機会があるかといえば火事にあったとか、救急隊や消防士、警察官などでもなければやたらめったらないだろう。いわゆる修羅場だ。
火災現場に遭遇した人ほど「火」の恐ろしさも知ってるはずだ。
私の実家でも昔、小火をおこした事があるけど小さな火でも恐ろしかったものです。
とにかくその熱、異常な赤い光、煙。思い出してもゾッとします。
私が毎年見に行く火渡り修行は裸足で火を渡っている‥確実に裸足です。
仮に、足袋を履いていたとしても靴のソールが熔けることも焦げることもある。
おまけに見てる限り焼けた炭もあります。
周囲には木が炎がメラメラ燃えて腰ぐらいまで火が上がってます。絶対に熱いし、火傷を負ってもおかしくない状況。
そして毎年毎年、こういったことを言う人がいるんです。
「歩くところは火を全部避けて燃えてるように見せてるだけで全然熱くないんだろ。大した事ない」なんてことを言うんですよね。
まあ、ひどいことを言うなあと思うのですよ。行者さん以外の人が渡る時はあぶなくないように整備してから一般の人が渡るのですがそれを見たからでしょうか。
いやいやいや(笑)
整備する前にわたってる行者さんたちは熱い炎と炭の上を渡るし、火に長時間焼かれた土の上が冷たいなんてことはないですから、熱くて下手したら大やけどする可能性のある道場で修行をしてるんですよ。
そしてまた、渡る行者さんを笑う人たちが一定数いるんですよねぇ。
これは何なのかな?と毎年思っていたのですが今年はよくよく観察してみました。
笑ったり、どうせ熱くないんだろうと言ってる人達に限って、一般の人が渡れる火渡りにも参加しない。つまり経験してないんです。
私も一般枠で最初の方に並んで渡ってみたのですが、やけどするほどではないかもしれませんがヒリヒリするくらい熱かったし、左右に燃え上がる炎もかなり熱いですし、恐怖心は湧きました。
これよりもさらに熱く燃えてる、しかも炭も落ちてる上を渡る行者さんたちが危なくないわけがないです。簡単ではないと思うんですよ。
自分で経験もしないし自分でやろうともしないけど、他人の積み上げたことを理解する想像力もなく、あざ笑っている
ということがわかったのです。
普通のことを普通にできるということは当たり前のようで当たり前でなかったりする。
借りた本を返すとか、毎月の支払いをちゃんと期日に支払うとか、ゴミを分別してゴミの日にちゃんと出すとか、歯を磨くとか、出したものをしまう、汚れたらキレイにする、水に濡れたらふく、毎日仕事に行く、とか。
そんな当たり前のことが出来てる人って、社長とか大臣みたいな肩書もないし名札もないし表示もないけど、社会で生活するにあたって目に見えない立派なことだと思う。
きちんとしてる人は案外地味で目立たない、ということを私はある程度大人になってから知った。接するとわかるんですよね。
会話が噛み合うとか価値観に共感できる部分とか。
柴灯護摩であのような振る舞いをする人というのはなんなんだろう?と思っていたけれど、要は、火に熱した鉄に油をひいて滑って転ぶ人間を見て笑うような人間だと言うことだな、と今年のご修行をみて感じました。
ちなみに、嗤った相手はだーれも怪我してないし無事に終わったそうですよ。
無魔成満!
この決着を聞くと、嗤われた相手に落ち度があるのではなく、嗤う方になにかがあるのだなということがわかりました。
そんな今年の柴灯護摩でした。