生への渇望
私の父は幼い頃、がんで亡くなりました。
まだ幼かった私は父親を「父親」としか理解できなかったし、1人の人間だという認識は当然もっていなかった。「お父さん」という存在は「お父さん」なのだ。
大人になってから母親と父の話をすることが増えた。それも最近。
母から見た父は1人の人間であり、1人の男性なのだ。そんな母から見た父という人間は、とても弱い人間だったのだろう。
母のほうが気力も現実を見て行動にうつす決断も強い。何があっても乗り越える。
父は職人だったが、ある時から思うように体が動かなくなり自営の仕事もうまく回らなくなった。病気が進行し入院した。
常々「死にたい」と弱音を吐いていたそうだ。そんな父に寄り添いながらも、気丈な母もおそらく疲弊してピリピリしていたと思う。
母は最後まで父を看取った。
見舞いに行ける日は必ず病院に行っていた。私も週末やついていける日は同行していた。
父の最期の病室の光景は今でも覚えている。
医師から最後を告げられ、母は涙をこらえ ながらも、我慢して苦しまないでとつぶやいた。
母が父を最後まで看取るまで、死に向かう父の心情を聞かせてくれた。あれほど「死にたい」と日頃から願う父だったが、本当に死の影が訪れ始めると死への恐ろしさや生を渇望する。
しかしもう肉体は限界だ。
そして、生を諦めない姿が最後に現れ、息を引き取ったそうだ。
母は、人間は死ぬ直前になって生きることへの思いやのぞみが生まれるのよ、と語った。
どんな生だったのか
どんなふうに生きたかったのか
どんなふうに生きたかったのか?を今問い、それが、どう生きるかの道標になったら。
生ある今こそ、なにか1枚の皮がむけるのかもしれない。
狛犬のあしあとマガジン『弁才天』
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