「大宮の薬師」(長野県諏訪市中洲)
諏訪市中洲下金子の公民館には、かつてこの位置にあったという薬師堂がその一室に設けられている。
扁額が掲げられ、薬師堂部分のガラスサッシは閉められているが、いつもカーテンが細くあけられている。
厨子のなかにご安置されている薬師如来を拝観できるようにしてくださっているように思う。
下金子薬師堂薬師如来縁起
そういえば、館外に設置された案内板が新しくなっている。
以前のものは錆がひどく、読みにくかった。
下金子薬師堂の薬師如来の縁起である。
冒頭から驚くようなことが書いてある。
下記に引用する。
ここに案内板に登場する「大宮」というのは現在の諏訪大社上社本宮のことである。
神仏判然令までは諏訪社も全国の多くの神社のように、寺院を伴っていた。
上社本宮には別当寺の「普賢神変山神宮寺」、別院の「鷲峰山法華寺」「秘密山如宝院」「七島山蓮池院」の4寺院。
法華寺のみ天台宗、のちに臨済宗に改宗している。他は真言宗である。
このほか、8坊があった。
「大宮の薬師」と聞いて、ピンとくるのは1868(慶応4)年まで上社本宮にあったという薬師堂とその本尊・薬師如来のことである。
神仏混淆信仰形態を持つ上下諏訪社はそのどちらにも薬師如来を祭る堂が境内もしくはその至近にあった。
神仏判然令を受けて、上社薬師堂は神宮寺のほかの堂塔同様に1868(明治元)年12月に撤去、移築された。堂内の薬師如来像は紆余曲折を経て、脇侍の2体と共に現在は茅野市玉川穴山の長円寺薬師堂に安置されている。
…はずなのだが、なぜこの下金子薬師堂にも「大宮の薬師」なる薬師如来が存在しているのだろう。
諏訪上社の薬師堂と薬師如来
上社本宮には慶応4年まで法華寺が管理をする薬師堂があった。
御手洗川の左岸側、かつてあった御神体・御鉄塔より一段高い斜面上部である。
現在は諏訪大社に社有地で立入禁止となっている。
御手洗川側からうかがう程度にしか見ることができない。
江戸時代のいくつかの古絵図にも上社薬師堂は御鉄塔より一段高い斜面部分に描き込まれている。
上社薬師堂は神仏判然令に伴い境外へ移築、堂内の薬師如来は脇侍の日光・月光菩薩(とされている)とともに茅野市玉川地区の長円寺薬師堂に安置されている。
一緒に祀られていた十二神将は茅野市泉野槻木の公民館に祀られているという。
長円寺に安置される上社薬師堂由来の薬師如来立像は像高91.5cm、一木造りで制作年代は鎌倉期と推定されている。
諏訪郡内屈指の人気を誇るお薬師様で、江戸時代には御開帳もたびたび行われていたようだ。
長円寺の発行するフライヤー(2022年) によると「鎌倉時代春日の仏師作と伝えられ、日本三大薬師如来とも呼ばれ旧諏訪明神の本地仏である」とされている。
『諏訪史蹟要項 中洲編』は慶応4年の法華寺の史料を引用し「本尊立像長三尺ニ寸、日光三体共春日作、鳳来寺峰薬師同木同作也。」としている。
どこからどう測っているのかわからないが「三尺二寸」では実際の薬師如来像よりいくらか大きい。
「鳳来寺峯薬師」(甲斐善光寺蔵)は鳳来寺(702年開山、現愛知県新城市)開基の利修仙人が作ったと伝えられ、上社薬師堂の薬師如来像とは制作年代が合わないように思われる。
そのうえ、「旧諏訪明神の本地仏」とはどういうことだろう。
そして、本尊の薬師如来像と釣り合わない、両脇侍の傷み具合は一体何を意味するのだろう。
下金子の薬師如来の来歴
下金子薬師如来の年譜
『中洲村史』などから下金子薬師如来像についての記事を抜き書きしてみた。
大事にされていたことは間違いないようでもあるし、高島藩にもその存在はしっかり認知されていたようである。
外観
まずはお姿であるが、お厨子は下金子薬師堂の最奥にあり、建物外部からでは細部の確認が困難である。
『中洲村史』にはその像容がモノクロ写真で掲載されている。
『中洲村史』は粗い写真のためはっきりとはしないが、とにかく傷みがひどいことはわかる。
本宮付近から流され、宮川を経由し土砂に埋まって130年間では無理もない。
足元には腐食のような跡、顔面は目鼻口の判別はできるが表情をうかがうことはむずかしそうだ。
衣を纏っていることはわかるが、「薬師如来」とする外観上の決め手はどこなのか、『中洲村史』の写真ではよく判らない。
下金子薬師如来はひどい傷み具合であるが、そのようすは長円寺薬師如来の脇侍の2体によく似ているように見える。
下金子薬師如来は脚部分がだいぶ失われているが、かつての像高について脚部が程よいバランスを持っていたとして想像すると、長円寺薬師如来の脇侍2対との像高のバランスも良さそうに思える。
制作
この下金子薬師堂について、『中洲村史』によると下金子村に残される「金子薬師如来ご縁起并造営記」が唯一の史料だという。
その記述によると
・この薬師はもと大宮裏山の薬師堂に安置
・空海作
だという。「空海作」は全国津々浦々にある伝承であり引っかかりをおぼえるし、「利修作」と伝える法華寺の史料とは噛み合わない。
が、それほど古く由緒のあるものととらえられていたことであるのだろう。
上社神宮寺には開山良弁(奈良県:東大寺:華厳宗)、第二世最澄(京都府:比叡山延暦寺)、第三祖空海(和歌山県:高野山金剛峯寺)という伝承もあるという。
もしかするとかも上社神宮寺の宗派の変遷をなぞっているのかもしれない。
もそれとも、世に広く知られ圧倒的なネームバリューの3人の高僧を掲げることで、上社もしくは上社神宮寺の地位をあげる意図だったのかもしれない。
2体の上社薬師薬師如来像
1448(文安5)年の大水で流される前、下金子薬師如来と長円寺薬師如来の脇侍が上社薬師堂にご安置されていたのではないか。
これはあくまでも想像に過ぎない。
下金子薬師如来像が「大宮の薬師」である決定的証拠はない。
今あるのは下金子に伝わる伝承、そして像容の似た3体の傷んだ仏像である。
しかし、その想像を強化する論考の記述がある。
ここからはさらに私の想像する物語である。
1448(文安5)年、上社裏山の薬師堂から「流された」薬師如来像とその脇侍。薬師如来像はさらに宮川まで落ち、行方不明になった。しかし脇侍2体は見つかりなんらかの経過で上社薬師堂に戻される。
行方不明になった薬師如来像のかわりに別の薬師如来像、つまり現在の長円寺にある薬師如来像が安置される。
約130年後の1577(天正5)年、下金子堂田で古びた木造仏が見つかり、なぜか「これは大宮から流された薬師如来像だ」ということになったが、なぜか上社薬師堂に戻されず、村のお堂に安置される。
1868(慶応4)年、上社薬師堂の薬師如来と脇侍2体は薬師堂を出たのち、長円寺へ移される。
かくして、上社薬師堂の薬師如来像は2体存在することになった。
だが、「流された」は何を表すのだろうか。実際には流されたのでないのではないか、何かの出来事の代わりに「流された」とされているのではないか。
仏像が「流れされる」「漂着する」に類するエピソードは全国各地で見られ、諏訪地域においても照光寺の仁王像や小坂観音院の十一面観音像のように、湖岸に流れ着いた・漁師の網にかかったという伝承がある。
もし下金子薬師如来像が本当に「大宮の薬師」ならば、下金子への移動の経緯と薬師如来像が上社薬師堂に戻されなかった理由はなんなのだろうか。
すでに新しい薬師如来像が安置されていたためなのか。
そうだとしたら2体の脇侍をあの姿で安置することについても違和感を思う。新しい脇侍を迎えなかったのはなぜだろう。
「旧諏訪明神本地仏」
そして衝撃的な「旧諏訪明神本地仏」である。
前掲の小林氏の論考内で紹介されたような鎌倉期以前の「奥院に薬師如来」という説をなぞって、上下社神宮寺の本尊がかつて薬師如来だったとするのであれば、薬師如来が上神宮寺の「奥院」の本尊として本宮境内にあった諏訪大明神御神体の「御鉄塔」よりも一段高い奥に、そして現在下諏訪町の敬愛社が所蔵する下社春宮の本地仏とされる「和光山観照寺」由来の金銅薬師如来像がかつて春宮宝殿よりも奥にあった薬師堂に安置されていたといわれることに理由がつくように思える。
下金子薬師如来像も観照寺由来の金銅薬師如来像もその制作時期が不明であるが、〜平安初期の制作であれば、諏訪地域の信仰史や諏訪上下社の古態を探る鍵を握っていることになるのかもしれない。
天台宗の開祖・最澄が弘仁7(817)東山道を通って下野・上野へ旅をしている。
その道中、通過した伊那谷には瑠璃寺(高森町大島) という古寺がある。境内に日吉神社と本尊・薬師如来像(平安後期作)を安置する薬師堂を伴う天台宗の寺院である。
また飯田市立石の千頭山立石寺は現在では真言宗寺院であるが隣に日枝社を伴う。かつては別に場所にあった天台宗寺院であった伝承もある。本尊の十一面館観音像はじめ平安期作の仏像がいくつも安置され、その中にやはり平安期の薬師如来像もある。
伊那谷を北上した先の岡谷市の・照光寺にも伝白鳳期の薬師如来像がある。
照光寺は現在は真言宗の寺院で本尊は大日如来であるが、山名は「城向山瑠璃光院」を冠し、古くは天台宗だったのではないかと思わせる。延喜式にあらわれる「岡屋牧」の至近であり馬産に関与する渡来人の定着も推定されて、仏教が早い段階から非公式に入り込んでいた可能性もある。
紹介した寺院は最澄の直接の関与は考えにくいが、東山道または天竜川を経由した天台宗との接触は早かった可能性がある。
天竜川両岸は天台宗を思わせる痕跡を持った真言宗寺院がいくつもある。
諏訪も岡屋牧周辺から天台宗の入り込みがあり、真言宗より先行したのではないか。
天台宗により持ち込まれた薬師如来が、やがて諏訪上下社の本地仏として取り込まれ、境内もしくはその至近に迎え入れられたのではないだろうか。
神宮寺や別院は、なんらかの事情でやがて天台宗から真言宗に改宗していく。
法華寺がかつて天台宗であったことを思うと、上社薬師堂の管理をになっていたことは不自然ではないように思える。
神長官守矢家の本地仏
さらに神長官守矢氏の本地仏は「薬師如来」という説がある。
また、現在はその存在が確認されていない文書の引用をして神長が書いた文書の中に、神長の本地仏が薬師如来であることを記したとしている文書があるという。
間枝氏の論考にそれが紹介されている。
上社薬師堂から長円寺に移った薬師如来立像について、神長官守矢実久が長円寺に贈った「取調書」である。
「嘉禎三年に鎌倉幕府へ提出した書」なるものが登場する。
この書は現存が確認されてはいない。
しかし間枝氏の検討によるとこれは守矢実久の偽作とは考えにくく、すでに守矢家に伝わってきた文書だとされている。
もしかしたら守矢氏は、上社本地仏「普賢菩薩」が定められるより以前に、早い段階から天台宗によって上社に持ち込まれ本地仏として位置付けられていた薬師如来を、なんらかのタイミング(神宮寺や別院が真言宗に改宗するころのタイミングか)を利用し「菩薩」より上位の「如来」を一族の本地仏として取り込み、社壇より一段高い場所へ安置することで、神長を権威づけ正当化し、大祝や五官の中でより強いイニシアチブを取る目的があったのではないだろうか。
同じく薬師如来を本地とする下社春宮と神長の関係も気になるところではある。
そして先出した法華寺の文書である。
「法華寺社役堂塔勤方」からの引用としている
鳳来寺といえば三河。
そういえば、11世紀ころ神長館守矢家の分かれが諏訪信仰を携えてお付きとともに中央構造線の谷を南下して、三遠に定着したのだという。彼の地は「守屋」姓の多い地区が点在する。彼らの子孫の一部は今も現地で花祭や西浦田楽などの祭礼の中心的な役割を代々担っている。
神長が秋葉街道を利用し、広くその力を使っていたことも匂わせる。
「薬師の影に神長あり」などと唱えたくなってしまう。
果たして事実はどうなのか
繰り返すが、下金子薬師如来像が「大宮の薬師」であったという決定的証拠は今はない。
お像については、ぜひ間近で拝観してみたいと思うし、専門家の手による長円寺の2体の脇侍との比較を期待したいし、材も気になる。
文化財としての評価を強く願う。
地域の公民館の奥の間で大事に祀られている古い傷んだあのお像が、旧諏訪大明神本地仏かもしれなくて、もしかしたら神長官守矢家の本地仏であるかもしれなくて、「諏訪」をかたち作った大いなる鍵を握っているのかもしれないと思うと、心が騒いで仕方がないのだ。