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身近な伝統から学ぶ2 「仏教との出会いと気づき」

(前回の続き)

前回、高校の倫理の授業を経て、正信偈の内容が気になったといいました。しかし、高校生のころは大学受験に追われていた部分もあって、浄土真宗のことについて自分から調べるということはありませんでした。

その後、大学生になった僕ですが、「大学受験」のような大きな目標を喪失し、将来への不安に支配されました。もともと、日本史の研究をしたくて大学に入りましたが、本当に研究でごはんが食べていけるか、とか、勝手に悪い妄想をしてしまい、自分を見失っていました。それに、大学1年生のころは俗にいう「コロナ禍」であり、大学もオンライン授業ばかり。結局こういった自分の不安をほかの人に打ち明けることもなく、苦しい日々を送っていました。
「このままでは自分がだめになってしまう」、「自分の軸となる考えが欲しい」と思った僕ですが、そんな僕を変え始めたのがまさに仏教との出会いです。
 最初は、去年の3月に京都に行った際、お寺で仏教関係の本を買ったことがきっかけです。僕は北海道に住んでいますので、京都は頻繁に行ける場所ではありません。この機会にお寺でしか買えないような仏教に関する本を買っていこうと思い複数購入しました。その中で、僕に多大な影響を与え、今もなお心の支えとなっているのが、高台寺執事、圓徳院住職の後藤典生さんの『圓徳院住職がつづる とっておき高台寺物語』という本です。当然、高台寺を訪れた時に買いました。
この本のよいところは、高台寺の歴史や施設の説明だけでなく、仏教の教えがしっかりと説明されているところです。高台寺は言わずと知れた臨済宗のお寺ですので、後藤さんも禅の教えを意識して書かれたと思いますが、ここで記されている内容は宗派の違いを超えて、仏教を大事にしたい人すべてに有益なものだと思います。
この本の2章には「仏教徒の品格」と題して、仏教者の視点からどういう人間が品格があるといえるか、50例あげて説明されています。
その中の3つ目が、特に自分にとって衝撃的な内容で、今まで出会ったこともない視点でした。長いですが、その部分を引用します。

3.生きることにも死ぬことにもこだわらない人
生きることも死ぬことも選ばない…。つきつめれば、そういう境地をめざしてわれわれ仏教徒は修行しているようなものだと思います。
 私はよく「生きるときには生きればいい。死ぬときには死ねばいい」と言います。与えられた命を全うするまでは、たとえ体が不自由になったとしても、老いさらばえたとしても、最後の一分一秒まで一生懸命生きる。そして、時期がきたなら、「まだやり残したことがある」などとジタバタせずに死を受け入れるのです。
 禅の高僧白隠禅師も、「いつか生死(しょうじ)を離れるべき」と述べています。「生死から離れろ、そういうことを乗り越えろ」という意味です。つまり、生きることに対しても死ぬことに対しても腹をくくりなさいという教えです。
 盤珪(ばんけい)禅師は、「死に際してどんな覚悟をしたらよいでしょうか」と質問されて、「覚悟はいりません。死ぬときは死んだらいい」とおっしゃいました。覚悟など不要なのです。
 死に際をきれいにしたい、往生際をよくしたいという方がよくありますが、死に方にもこだわらず、そして、家で死のうが、病院で死のうが、道端で死のうが… どこで死んでも同じ。そこまで腹をくくりなさい。

後藤典生『圓徳院住職がつづる とっておき高台寺物語』pp.96~97 

これを読んですぐに納得できる人は少ないと思います。僕だって、できることなら一日でも長く生きていたいですし、なにせ、好き好んで死を選ぶ人など一人もいないはずです。自殺だって、悩み苦しんだうえでの結果であって、生まれたときは誰も「死にたい」などとは考えていません。

しかし、誰も死を避けることはできません。それに、いつやってくるかわかりません。僕の父方の祖父は急に容体が変わって亡くなりましたので、そのことを強く実感しています。
この「自分はいつかは必ず死んでしまう。それに、それがいつかわからない」。この事実を直視して苦しみ、この苦しみをどうやったら手放せるのか… この問題に、人生をかけて挑んだのが釈尊(ブッダ、お釈迦さま)であったといえます。仏教には様々な宗派がありますが、この問題意識は共通していると思います。宗派の違いは、心の苦しみを手放すにあたり、どのような方法で行うかの違いだと思います。

人間には様々な欲がありますが、そのすべては「自分が生存するため」、もっというと「自分が傷つかずに生存するため」にあるといえます。人間も生き物ですから、当然「死を避ける」方向に欲が働くのです。ところが、自分が傷つかずに生き続けることはできません。人は必ず死を迎えますし、そこまでいかなくてもけがや病気をして苦しい思いをします。まさに、この「欲」と「現実」のギャップこそが苦しみを生みます。
苦しみとはけがや病気などといった肉体的なものだけではありません。もう一つ具体例をあげます。

多くの人が抱える悩みに、「人目を気にしてしまう」とか、「人に嫌われたくない」というものがあります。これも欲の一部だと思います。
自分が、まわりの人すべてに嫌われたところを想像してみてください。こうなると、誰も自分に手を差し伸べてくれなくなるかもしれない。すると、自分が困っても誰も助けてくれない。これはつまり、「命の危険」につながると、私たちの心は先回りして判断するのでしょう。実際、衣食住を簡単に得られなかった時代は、周囲からの孤立がそのまま命の危険につながったはずです。だから、周りの人全員に嫌われるということはまずないのに、無意識的な欲によって命を脅かされないようにしたいと心が動き、「嫌われたくない」と思ったり、「◯◯に嫌われているのではないか」と勝手に妄想をし、苦しんでしまいます。
このことに限らず、「ネガティブ思考」も基本的に命の危険を避けようとする欲のなせる業だと思うのです。

もちろん、「現実」のほうもある程度努力して変えることはできるでしょう。しかし、地震などの自然災害のように、人間の力ではどうすることもできない災難は絶えません。他人の心を自分の望み通りに操作することはできません。

「食欲」や「睡眠欲」があるように、生きている以上欲を完全になくすのは不可能です。ところが、欲に振り回されてしまうと、苦しみが増えていきます。仏教を学ぶことで、ここに気付くことができました。

仏教を知るまでは、「自分を脅かすようなことをいかに避けるか」ばかり考えていました。つまり、自分が望まない現実から逃げることばかり考えていました。けれど、それによって余計自分が苦しくなったりしていたのも事実です。
 もちろん、自分の命を守るような行動をするのは大事ですが、自分がコントロールできることには限度があります。このことに気付き、欲を一定のところでストップさせることこそが「足ることを知る」なのではないでしょうか。
心から幸せになりたいのなら、自分が望まない現実に背中を向けて逃げるのをやめ、顔を向けて対面しなければならない。最近強く感じていることです。
精神的な健康のためには、どこかの段階で「自分の望まないことが起こるかもしれない。痛み苦しむかもしれない。でも、たとえそうだったとしても、ここから先は、自分の身に何がおこっても、抵抗せずに素直に受け入れよう」という覚悟が必要不可欠だと、僕は仏教を学んでから思うようになりました。

その究極的なかたちが、「生きることにも死ぬことにもこだわらない」なのだと思います。でも、どうしたらそんな覚悟ができるのか… 次回以降、その点について考えていきたいと思います。
(次回に続く)

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