禅語5 曹源一滴水
曹源一滴水(そうげんのいってきすい)
唐の時代の中国に、慧能(えのう)禅師(638〜713)という方がいました。
慧能禅師の教えは、やがて多くの禅師たちにうけつがれ、それは海を越えて日本へ。今の日本でも禅の宗派として名高い臨済宗・曹洞宗も、もとをたどれば慧能禅師までさかのぼることができます。
慧能禅師は、曹渓という川の上流に住んでいました。
川というものは、どんな大河であっても、最初は一滴の水から始まります。しかし、その水が山を下るごとに小川となり、そして最終的には大河になるのです。
それと同じで、最初は1人から始まった説法がやがて世の中に広まり、多くの人を救っていく有り様を「曹源一滴水」は意味します。
わたしたちは、どんなに自分が正しいことをしていると思っていても、それがまわりから評価されないということは多くあり、「自分一人がやったくらいじゃだめなのでは」という思いに駆られることもあるでしょう。
しかし、一滴の水が枯れると、川も枯れてしまうのです。救われるはずだった人が救われない、ということになります。
「たかが一人」と思っていても、その一人が諦めてしまうとついに他人に知られることもなく、自分の考えで他の人々を動かすことはできません。「他人がやってくれる」と思っても、自分と100パ一セント同じ行動をしてくれる人などいないでしょう。
一滴の水であっても、流し続けていれば大地をどんどん潤していく。だから、人のためになるということ、自分がやらなければならないことを諦めるのは非常にもったいないのです。誰でも、大河の源流になる可能性があるのですからね。