儒学と僕2 『孟子』死の覚悟について
近況
早いもので、もう7月となってしまいましたが、皆様、お元気でしょうか。
僕が所属する日本史学研究室では、2回目の卒論相談会なるものが開かれ、私自身も、どんなことを卒論に書くのか、またこれからどういう史料をみなければならないのか見えてきました。
僕は、江戸時代の朱子学者たちを主に扱っているので、勉強をしていくたびに、自分ももっと儒学、そしてその伝統の中から生まれた朱子学について勉強しなければと思います。当時学者たちがなぜ儒学・朱子学に情熱を燃やしたのか、ますます気になってきます。そして僕自身も、昔の学者には及ばずとも、何とかして儒学から学んだことを自分のため、人のために活かしていきたいとより強く思います。
今回取り上げる章について
今回は、孔子に次いで「亜聖(2番目の聖人という意味)」と称される孟子の思想・行動が記された『孟子』の滕(とう)文公編下に収録された文章を取り上げます。『孟子』も有名な『論語』などと同じく四書五経の一つであり、儒学では大事な古典の一つです。
なお、『孟子』には「~編」が全部で7つあり、さらにそれぞれの編が上・下に分かれています。引用するときは「上・下」までセットで記すので、『孟子』は14のグループに分けていると考えたほうがいいでしょう。
ちなみに、滕の文公というのは、詳しいことはわかりませんが孟子と同時代(紀元前330~300年くらい)の君主でした。滕は、中国でも東のほう、今の山東省にあった国ですが、孟子の頃には東の大国、斉の勢力圏に入っていた可能性があるようです。ただ、『論語』の場合もそうですが、編の名前は、その編の名前の最初に出てくる人名や言葉が使われているので、「滕文公編」だからといってずっと文公の話が続くわけではありません。ちなみに、今回取り上げるところも、文公は関係ありません。
今回の言葉
普段みない漢字も含まれていますが、果たしてここはどういう意味でしょう。
中国古典界の大先生、諸橋轍次先生の『中国古典名言事典』にもこの部分は登場するので、この事典を参考にして現代語訳をすると、
「義を守る志士は、常に溝や谷に自分の遺体がさらされるかもしれないということを忘れず、勇士はいつも、自分の首が打ち落とされるかもしれないということを忘れない」
となります。つまり、「いつも殺される覚悟をしている」ということです。少し恐ろしい印象がありますね。しかし、言葉のインパクトによるものでしょうか、なかなか僕の記憶から抜けません。
ただ、『中国古典名言事典』ではこの部分の言葉がどういう文脈で使われているのか書いていませんので、『孟子』の原典(宇野精一『孟子 全訳注』講談社学術文庫 を参考)を読んで文脈を確認しておきましょう。
孟子の弟子である陳代という者が、孟子に尋ねます
「先生は、諸侯に面会しませんが、それは器量が小さいことだと思います。ひとたび諸侯と会って、先生が自身の志をもってその諸侯を支えたなら、功績を挙げることは間違いないでしょう。むかしの記録にも、『わずか一尺をまげて、八尺を伸ばす』(自分の考えを少しばかり曲げることによって大きな成果を得る)とありますので、先生もそうなさるとよいでしょう」
これに対して、孟子は斉の景公(紀元前548~490年)と彼に仕える役人の話を持ち出して反論します。そして、この話の中に今回の言葉は出てきます。
「昔、斉の景公が狩りに出かけたとき、景公は狩場の役人を旗で招こうとした。しかし、役人はその招き方が礼儀にかなっていなかったので、景公のもとへ行かなかった。それを見て、景公はその役人をとらえて殺そうとした。
孔子はその話を聞いてその役人をほめて言った…」
このとき、孔子が言った言葉が、志士は溝壑に在るを忘れず。勇士は其の元を喪うを忘れず。
だったというわけです。『孟子』の中に出てくる言葉でしたが、もともと言ったのは孔子だったんですね。このように、孔子の言葉が『論語』以外のところに出てくることは意外とあります。
ここで孟子が言いたかったのは、「相手が自分より位の高い人であっても、正当な招き方をされないのならその相手のもとへ行く必要はない、だから招かれてもいないのにこちらから諸侯のもとに行く必要はない」ということでした。くわえて、孔子の言葉を引用することで、
「自分が正しいと思うことは、命がけで貫く必要がある」ということを言いたかったのではないでしょうか。
何を学ぶか
さて、今回取り上げた「志士は溝壑に在るを忘れず。勇士は其の元を喪うを忘れず」から何を学ぶか。ここが重要です。孟子がいたころは、王の機嫌を損ねたり王から疑いをもたれたら殺されてしまう、ということが普通に起こりうるので、そうした状況のなかで自分の意志を通そうとするなら、当然「殺されるかもしれない」という意識がつきまとったのでしょう。
ただ、21世紀を生きている私たちは、たとえ仕事でミスをしたり、目上の人の機嫌を損なってしまっても、それで殺されることはないですね。だから、「死ぬ覚悟をもて」などといってもピンとこないでしょう。ただ、自分が何かをやりたいとき、自分の気持ちをつらぬきたいとき、なにかしら犠牲をはらう必要があるのは確かでしょう。
孟子の時代、そして日本でも江戸時代までは武士が責任をとって切腹するということがありましたので、そういう時代に生きていた人で政治に携わる人はまさに自分の命こそが犠牲だったわけですね。だから、自分が仕える主君に何か忠告するということは、文字通り「命がけ」でした。
今はそんな時代ではありませんが、たとえば「自分は本当に言いたいことがあるけど、これを言ったら相手から嫌われるかも」とか、「もしこれで失敗したらまわりから孤立するのではないか」という悩みは経験するでしょう。
僕も、こうした傾向が強く、自分を優柔不断な人間だと思っていました。僕はそういう自分が嫌でしたし、「志士」とか「勇士」みたいな人とはうまれつき性格が違うから自分はそんなふうにはなれないな、と思っていました。
しかし、今回取り上げた言葉にであって考えが変わりました。「勇気がある」とか、「自分の気持ちを貫ける」というのは生まれつきの性格ではない。「いかに犠牲を払えているか」の違いにすぎないと気づきました。
たとえば、なにか欲しいものがあったとして、その品物を売っている店に何時間たっていても、そのものを手に入れることはできませんね。欲しいなら、それにみあったお金を払う必要があります。そして、自分がやりたいことのために払う犠牲も、このお金のようなものではないでしょうか。
何の目的もなくお金を捨てる人はいません。できることなら、お金は手元に置いておきたい。しかし、お金を持っているだけでは、何も欲しいものは手に入らないですね。
それと同じで、人間誰だって、嫌われたり孤立するのは嫌なはずです。あえて孤立するようなことはしたくない。それでも、本気で自分の人生を生きたいのなら、これらの犠牲を払う必要が出てきます。
僕は、さすがに殺されるのは嫌ですが、少しずつ「嫌われてもいいか」と思うようにしています。人間、すぐに自分の生き方が変わるということはなかなかありませんが、こういう考えをすることによって、自分なりの価値観を大事にすることがだんだんできるようになりました。
みなさんも、命や自分の健康まで犠牲にする必要はないですが、できる範囲からすこしずつ犠牲を払って、自分の考えを貫ける人生にしてみませんか。僕も、こうやって記事にしている以上は、自分の考えを貫く人生にします(そうじゃないと、嘘つきになってしまうので)