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先祖とのつながりを想う

今日は8月13日、この時期は僕も含め、多くの方がお墓参りをしたり、お寺で先祖の供養をすると思います。
普段は先祖のことを意識していなくても、このお盆の時期は自分の先祖に思いをはせるという方も多いのではないでしょうか。

思えば、自分と先祖とのつながりは本当に不思議なものです。僕の場合、四代前くらいまでは写真が残っていてどういう顔だったのかがわかり、江戸時代の終わりごろにどこに住んでいたかということはだいたいわかります。
しかしながら、その前はというと、自分の先祖がはたしてどのような姿をしており、どういう人生を生きたのか全くわかりません。

僕の家系は特にこれといった特徴もないので、おそらく農民・漁民として暮らしていたのでしょう。今となってはその具体的な暮らしを知るよしもありません。江戸時代であれば古文書が残っている可能性もなくはないですが、それより前となるとまったく見当がつきません。

それでも、先祖とのつながりをまったく忘れて生きるというのはあまりに寂しいと僕は思ってしまいます。
江戸時代までは、子どもの死亡率が高く、成人できるのが当たり前ではありませんでした。加えて、疫病・天災・飢饉、、、今よりもかなり死と隣り合わせだったはずです。

そういう厳しさの中で私たちの先祖は命をつないできたのです。その結果として私たちが今ここに存在しているのです。先祖の姿は見えなくても、そこから受け継がれた自分は見ることができますね。
ただ、最近では家に仏壇がないという方も増えており、こうした先祖とのつながりは意識していないと忘れてしまうかもしれません。
しかし、僕は命とはまさに「駅伝のたすき」だと思っています。それも、数えきれないほどの代を経たものです。
駅伝のレースを見ていても、多くの選手が後半苦しそうに走ります。それでも、足が動く限りはどんなに苦しくともたすきを放りだしてレースをやめたりはしませんね。それは、やはりたすきを前走者から受け継いでいるからであり、そして次の走者が待っているからに違いないでしょう。

私たちの人生もそれと同じで、やはり苦しいことは多いです。僕はまだ21年しか生きていませんが、それでも苦しいことは多くありました。そんなとき、漠然と「生きていくって大変だな」とか、「なんでこんな苦しい思いしてまで生きなければならないのか」と思ってしまうこともあるでしょう。

そんなときこそ、この「命はたすきのようなものだ」ということを思い出してください。つまり、自分の命は自分の勝手な判断で投げ出したり、無駄にしてよいものでは決してないのです。自分の命は自分一人だけのものではないのです。
それは一つには今まで述べてきた先祖とのつながりがありますが、次の走者が待っているからです。誤解してほしくないのは、別に「子どもをつくれ」とか「血筋を残せ」などと言っているのではありません。そんな狭い意味に限定されません。僕は、どんな人の人生も、ほかの人に何も影響を与えないなどということはありえないと思っています。社会的地位を何も持っていないという方でも、例えば会う人に丁寧に挨拶する、優しい言葉をかける。それだけで、相手の心は和むでしょう。こうした小さな心がけから相手のためになる活動ができます。ですから、あなたの活動に助けられる人、その助けを待っている人が必ずいます。

先祖から受け継がれた命を大事にし、そしてこの命がある限りは人を助けるような活動をしていく。それが、「たすきをつないでいく」ことなんじゃないかなと最近思い始めました。

だから、足が遅くたって、一回転んでしまったって、その都度立ち上がって堂々と「たすきリレー」をしていきましょうよ。


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