無門関第三十則「即心即佛」現代語訳

公案現代語訳

本則
 馬祖和尚は、弟子の大梅に問われた。
「仏とはどのようなものなのでしょうか」
 馬祖は言った。
「即ち心、これが仏である」

評唱
 もし、すぐに理解し悟ることができれば、仏衣を着て、仏飯を食べ、法話を説き、仏道修行を行う、すなわちこれ仏である。
 このようであるとはいえ、大梅は、多くの人を引き込み、誤って、天秤の棹の起点にある印である定盤星を、教えた。
「仏の字を説いたら三日間口を漱ぐ」ということを、知らぬはずはなかろうに。
 もしこれが、物のわかった立派な人物なら、「即ち心、これこそが仏」と説くのを見たら、耳を覆ってすぐさま走り去っただろう。


 青天白日
 決して探すな
 それでもどんなものかと問うならば それは
 盗んだ物を手に持ちながら 自分は盗んでいないと叫ぶようなもの


注記・雑感
 定盤星というのは、竿秤の目盛の起点となる最初の目盛に打たれた星の印のことを言うらしいです。
 この目盛に分銅を下げれば、棹は水平に戻るのだとか。
 よって、定盤星を定めるのは、竿秤を作る上では非常に重要なことであり、定盤星がきちんと正しく定まっている竿秤が、よい竿秤になるであろうことは明らかであろうかと思います。
 実際、中国の人は「定盤星」を「物事の原理原則」の喩えに用いることもあるそうです。

 この事実をまず前提として抑えておかないと、禅の公案の解説でしばしば「定盤星は、計測する際には全く注意する必要がない、用いられない無駄なもの」と断ずることの妙味が、多分理解出来ません。
 先述した事実が、周知の事実だった時代の人々にとっては、わざわざ説明せずともよかったでしょうが、現代の日本人には、これをまずちゃんと説明しておかないと、「へー、無駄で要らないものなんだ」とだけ思われることになるかと思います。
 でもそれは、解説する側の本意ではなかろうと思うのですよね。

 物事は一面的に見ない方がよいという一例かとも思います。


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