無門関第三十五則「倩女離魂」現代語訳

公案現代語訳

本則
 五祖が僧に問うた。
「倩女の体から魂が抜け出た話は知っていよう。
 どちらが倩女の真底であろうか?」

評唱
 もし、ここにおいて、真底を悟り得たならば、たちまち、殻から出るも殻に入るも、旅の宿に泊まるようなものだと解るだろう。
 悟れなければ、むやみに走り回るのはやめておけ。
 突然死ぬことになったとき、湯の中に落とされた蟹が手足をばたつかせてもがき苦しむようなことになるだろう。
 そのときになって「言わなかったじゃないか」などと言うなよ。


 雲と月は同じ
 谷と山はそれぞれ違う
 万福かな万福かな
 一であるか二であるか


注釈
 この公案は、「離魂記」という物語をベースに五祖が作ったもののようです。なので、この公案を考えるには、「離魂記」のストーリーを知っておく必要があるのだろうと思います。
 ちなみに、ここでいう五祖は、法演という人だそうです。
 六祖慧能の師である五祖弘忍とは別の人です。
 かつて弘忍がいた黄梅山に、法演が住んでいたことから、「五祖の山の法演」という意味で、「五祖法演」と呼ばれるようになり、さらに転じて「五祖」と呼ばれるようになった、という経緯だそうな。
 紛らわしいんだよ。素直に法演と書いとけ。そういうとこが禅僧のよくないとこだぞ。

 気を取り直して、以下に、「離魂記」の現代語訳を付記しておきます。


■「離魂記」現代語訳

 天授3年のこと。清河の張鎰は、役人だったので、衡州に赴任し家を構えていた。地味で物静かな気性だったせいか、友は少なかった。
 息子はおらず、娘が二人いた。長女の方は早くに亡くなったのだが、次女の倩は、容姿の端麗なることこの上なかった。
 張鎰の外甥である太原の王宙は、幼い頃から聡明で、容姿も態度も美しかった。
 張鎰は、常々、王宙のことを立派な人物だと見込んでおり、何かにつけ「いつかきっと、倩を王宙の妻にしてやろう」と言っていた。

 その後それぞれ成長した。王宙と倩は互いに寝ても覚めても思い合っていたのだが、家人はそれを知らなかった。
 その後、官吏として採用された者がいたのだが、この男が、倩を妻にと願い出た。張鎰はこれを許してしまった。
 倩はそれを聞いて塞ぎ込んだ。
 王宙もまた深く怒り恨み、転任を口実に、都に赴きたいと願い出た。
 張鎰は止めたが聞き入れられなかった。遂に、手厚く支度を整えてやり、送り出した。
 王宙はひそかに恨んで嘆き悲しみ、決別して船に乗った。

 日暮れ頃、数里ほどで山村に着いた。真夜中になっても、王宙は眠れなかった。
 すると、岸に一人、はなはだ素早い足音を立てるのが聞こえた。
 その足音はすぐに船の元に着いた。
 誰かと問えばそれは、倩であった。なんと裸足で歩いてきたのだった。
 王宙は気も狂わんばかりに驚き喜び、その手をとって経緯を尋ねた。

 倩は泣きながら言った。
「あなたの厚いお気持ちがこれほどのものであることは、いつも感じておりました。
 今まさに、皆が私のこの思いを奪おうとし、あなたの深い愛情が変わらないのを知り、我が身を殺してでも捧げ報いようと思います。
 そういうわけで、故郷を捨てて逃げてきたのです」

 王宙は思いもよらなかったこのことに、小躍りして喜ぶことこの上なかった。
 かくして王宙は倩を船に隠し、幾夜も逃げた。道中倍の速さで逃げ続け、数ヶ月で蜀にたどり着いた。

 それから5年の月日が流れた。子も二人生まれたが、張鎰とは音信を断ったままであった。
 妻となった倩はいつも父母のことを思い、涙を流しては言うのだった。
「私はあの日、どうしても背くことが出来ず、大義を捨ててあなたの元に逃げてきました。それから今まで5年もの間、父母との縁が隔たったままです。この世で、どんな顔をして、私一人、生きていることができましょうか」

 王宙は倩を可哀相に思い、言った。
「帰ろう。苦しむことはない」
 こうして、二人は、衡州に帰った。

 着くと、まず王宙が一人で張鎰の家を訪れ、初めに一連のことを謝罪した。
 しかし、張鎰は言った。
「倩はあれから病みついてしまい、寝室に寝ついたまま数年になる。
 なぜそのようなでたらめを言うのだ」
 王宙は言った。
「しかし、現に倩は、船の中にいます」
 張鎰は大変驚き、急ぎ使いの者に確かめさせた。

 果たして、倩が船の中に居るのが確認された。
 倩は、顔色はよく、表情はのんびりと穏やかな様子で、使者に「お父様はお元気ですか?」と尋ねた。
 使いの者はこれを異様に感じ、駆け戻って張鎰に報告した。

 寝室の娘はこのことを聞くと喜んで起き上がり、化粧をし、着物を着替え、微笑んで何も語らない。

 出でて互いに迎え合うと、翕然として一体となり、その衣装までも皆重なった。

 この家は、一連の出来事が「正しくない」ので、このことを隠していた。
 ただ、親戚の中に、秘かにこのことを知っている者がいた。

 その後四十年の間に、夫妻は二人とも亡くなった。夫妻の二人の息子は揃って郷挙里選の孝廉科に合格し、県丞と県尉にまでなった。

 私、元祐は、若い頃にこの話をよく聞いたが、聞く話によっていろいろと細かい差異があったので、おそらく作り話なのだろうと思っていた。
 しかし、大暦の末に、莱蕪の県令の張仲規に会った。そこで詳しくこの話の一部始終を話してくれた。
 張鎰は張仲規の父方の叔父であり、張仲規が語ったことは実に詳細で、足りぬところがなかった。故に、この事をここに記しておくことにする。

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