無門関第四十六則「竿頭進歩」⑥

 無門関第四十六則「竿頭進歩」について綴っています。
 公案の現代語訳は、こちら。

 あの講習会の何がそんなに怖いのか。
「オレは大丈夫だもん」と思う人に、「人間は自分が思うほど頑丈じゃないよ」という話を、してみます。

 講習中、受講者は、ぐいぐい会に引きずり込まれる人と、比較的冷静を保つ人に分かれ始めます。
 私が読んだ資料には、「喫煙者は、比較的、変化の進行度合が遅かった」ということが書かれていました。
 喫煙者は、煙草を吸うために、自発的に喫煙所に集まります。
 勢い、喫煙者同士何度も顔を合わせることになり、だんだん親しくなります。
 すると、会のスタッフの目の届かないところで、受講者同士で親密に話をすることになり、会を外側から冷静に眺める視点が失われにくくなる、ということのようです。
 言っときますけど、「煙草にもメリットがあるんだ!」という話ではありませんよ。煙草は、吸わずに済むならそれに越したことはないと、個人的には思います。

 そんな喫煙者の一人に、ある高齢男性がいました。
 この人は、思ったことはズバズバ口に出し、講習の途中でもよく進行役にツッコミを入れていた人です。
 進行役の言葉に「そらきた!」と眉に唾をつける仕草をしてみたり、進行役の納得する答えを出せずに悩む人に、「あのな、会の人はな、わしらの目を見とるんや。今度は目薬さしてから言うてみぃ。きっと合格するわ。わしが貸したろか」と、結構芯を食ったことを言い放ったりして、進行役の苦笑いを誘うこともしばしばでした。
 明るいキャラクターで、他の受講者からも好かれていた人です。

 この特別講習を受けた人全てが、実際にこの団体に入会するわけではありません。
 実際に入会するのが、どの程度の割合なのかは、知りません。
 帰らずに残るのがごく少数、一度帰って、身辺を整理してから再び戻ってくるのがそれより少し多い、といった程度でしょうか。

 しかし、他の誰が残ろうと、この爺さんだけはきっと残るまい。
 そう思うでしょう?

 資料の筆者は、後日、人づてに知るのです。
「入ったらしいぞ、あの爺さん」
「ほんとか」
「ああ」

 私が読んだ資料の筆者は、精神医学の専門家です。
 その本心は、入会を検討する目的ではなく、この講習会の実態を把握する目的で、潜入捜査よろしく受講したという人です。
 精神症状に悩み彼に相談した人の複数人に、この講習の受講経験があった、と判明したことが、彼を潜入捜査に踏み切らせた切欠でした。

 つまり、この人は、できるだけフラットな視点で判断しようとはしていましたが、入会するつもりもなければ、会の理念や立場を理解してあげようという気も、最初からさらさらありません。
 さらに、専門家ですから、精神の守り方も、素人よりは知っているはずの人です。

 しかしそんな人ですら、帰宅後、数日の間、様々な精神症状を発症し、悩まされています。
 ならば、他の一般受講者がどうだったのかは、推して知るべしでしょう。

 実際に入会まで至る人は、多くはないと思います。
 そういう意味では、それほど酷いように思えないと考える人も、いるかとは思います。
 しかし。
 結局入会には踏み切れなかった人も、後に脱会し、会のことを悪辣に言う人も。つまり、会の在り方には賛同できなかった人も。
 そのほとんどは、この講習のことだけは、決して悪く言わないのです。
「受けて良かった」「とても素晴らしい体験だった」と言い切るケースがとても多いそうです。
 そして、講習内容は明かしません。「受ければ分かるから受けてみろ」と、むしろ勧めようとする人も少なくないのです。

 怖くないですか?
 自分の強い意志だけでは、自分を守り切ることはできないかもしれないということなんです。


 宗教関係者は言うでしょう。
「この講習の事例は洗脳に近い、マインドコントロールだ。
 これと、我々の悟入体験は、全く違う」と。
 しかし、では、何がどう違うんでしょうか。
 私には、「違うのは、明確な悪意の有無だけだ」としか思えません。

 禅宗で悟入した僧侶は、自我による防壁を軽く壊した後、仏法をすり込まれます。
 悟入体験とはつまるところ、そういうことです。「無になれ」「執着を手放せ」「自分すら手放せ」って繰り返し言うじゃないですか。
 しかし、すり込まれる仏法自体に悪意はありません。
「悟入のとき見えたものには決して囚われてはいけない」と教えることからも、分かります。
 禅宗の日常のスケジュールが細かく定められているのも、おそらく悟入体験後、日常に戻ってきやすくするためなのだろうと、個人的には思っています。

 この講習会の参加者は、自我による防壁を壊された後、異形の思想をすり込まれます。現代社会では必要不可欠な、資産も、人間関係も、自己決定権すらも、文字通りすべて差し出させられるのです。
 運営側に明確な自覚があろうがなかろうが、どう考えてもそこに悪意はあります。

 しかしいずれも、「自我による防壁が壊れること」には、違いがないような気がするのです。

 以前もどこかで書いた覚えがあります。
「これは、ヤバいから、絶対にやろうと思うな」と。
 今回も、同じことを言います。
「竿の先に一歩踏み出そう」とは、決して思ってはいけません。
 こういう、明確な答えがない問題に関して、もっと深い境地があるはずだ、などと自分が思い始めたら、危険な傾向だと思った方がいいと思います。

「一人の盲人が、大勢の盲人を連れていく」
 こんな寒気のする光景が、ありますか?


「君子危うきに近寄らず」といいますし、変なものにうかうか近づくからだろ、と思う人もいるかとは思うんですけど、どうしても避けようがない事故のような出来事というのは、ありますからね。
 地獄への道は、しばしば善意で舗装されているのです。
 そのとき、どうやって窮地から脱するか。
 それは想像よりも遙かに困難なミッションです。

 自分が足を踏み入れた会や団体が、こんな感じである場合。
「最初に目的を明確に示さず」
「外界と遮断された場所、不特定多数の人が出入りできない場所で」
「貴重品と連絡手段を取り上げられ」
「疲労や睡眠不足が慢性化した状態で」
「小さくない苦痛から長時間逃れられず」
「最終的に達成感を感じ」
「最初の説明とは違う目的が示される」
 このあたりが揃うようなら、極めて危険だと思ってください。
 語られる内容が正しいか間違っているかは関係ない。
 賛同者を増やすためにこんな手法をとらねばならない時点で、そこは充分危険なのです。

 それでも、こんな講習会のような状況に陥ってしまったら。
 とりあえずは、「貴重品は預けてください」と言われても、バカ正直に全て渡さないようにしましょう。
 最低限現金はこっそり所持しておくこと。出来れば携帯電話も。
「いざとなれば、いつでも逃げられる」
 そう思えることが、とても大切なことなのです。
 ただし、バレないように。

 あるいは、「もっと真剣に頑張れ!」などと言われても、こっそり適当に力を抜くことが出来る程度の図太さを、日頃から養っておきましょう。
 力は抜いていいですが、手を抜くのは後々まずいことになるかもしれないので、そのあたりは臨機応変に。
 そして、気分転換や休憩を適宜挟みましょう。
 できればこれも、バレないように。
 自分に合う疲労回復の手段を模索するのも大切です。

 要は、上の条件が、外れれば外れるほど、危険から遠ざかれるかもしれない、ということです。
 あくまでも目安ですが、心に留めておきましょう。

 しかし、自分ではなく、自分の大切な誰かが、そんな状況に陥っているように見えたら。
 ことはそう簡単ではありません。
「それは間違いだからこっちに戻ってこい」と真正面から切り込むと、その相手は却ってその『間違ったもの』に執着する可能性が高くなります。
 相手を「間違っている」と判断し指摘するのは、それが正しかろうと間違っていようと、とても簡単です。
 それは、その相手も、そうなのです。

 だから、せめて、「こういうことが起るんだよ」ということを、備忘録的な意味も持たせつつ、書いて残そうと思います。
 どこかで、気づけるように。
 これを「『こういうのにハマる人』も、決して最初からおかしいんじゃないんだな」ではなく、「『自分』も、そうなるかもしれないんだな」と、思っていただければと、思います。

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