無門関第三十四則「智不是道」現代語訳

公案現代語訳

本則
 南泉和尚は言った。
「心は仏ではない。智慧は道ではない」

評唱
 南泉は、老いてなお恥を知らぬと見える。
 臭い口をわずかに開けば、家の恥が外にさらけ出る。
 そうは言っても、恩を知る者は少ない。


 晴れた空には陽が昇り
 雨が降れば地面が濡れる
 思いを尽くして説き尽くした
 信じられるかだけが心配だ


雑感

 インドから伝わった仏教から派生した禅が中国で花開き、その中で「言葉を超えた教えをくみ取れ」という考えが広く根づいていった背景には、「中国語には、いわゆる『てにをは』がない」という事情が、かなり強く関係しているのではないか、という気が、最近しています。

 漢文を現代語に自分で訳してみると解るのですが、漢文って、細かいニュアンスを正確に表現するのには、あまり向かない言語なんですよね。
 今回の公案の本則は、「南泉云、心不是佛、智不是道」です。
「南泉は言った」の部分はいいとして、「心不是佛」の部分。
「心は仏ではない」「心が仏なのではない」「心も仏ではない」「心ではないものが仏である」「心のない状態が仏である」
 思いついただけざっと書きましたけど、これらすべて、「心不是佛」の訳になり得ると思うんです。
 ニュアンスがそれぞれ微妙に違うにも拘わらずです。
「心不是佛」だけでは、そのニュアンスがどういうものなのかがすぐには伝えられない。言語がそういう作りなんです。
「智不是道」の部分も同様。

 言語そのものが、誤解を生む宿命を最初から内包した作りになっている。
 だから、言語以外の何かで伝え合う訓練を積む必要がある。
 そういう背景があっての「言葉を超えた教えをくみ取れ」かと、個人的には感じています。

 昔の日本で禅が隆盛を誇った背景も、結局これじゃないかと思ってます。
 古文も、現代の日本語に比べると、やっぱり助詞や形容詞が少し貧弱な気がするんですよね。
 なんでもかんでも「あはれ」「をかし」「いみじ」。
「エモい」「ヤバい」「ありえない」だけで世界のすべてをぶった切っていくギャルみたいな状態。平安時代の随筆とか、そんな感じじゃないですか? 私が古典を知らないだけかなあ。
「何がどうヤバいの?」と訊いたら「だぁかぁらぁ、ヤバいんだって。わかるっしょ。わかんないなら言ってもムダ」とか言われる。もっと最適な形容詞が生まれてないから。
 これが多分日本の禅宗の「言葉を超えた教え」に繋がっていったんじゃないですか。あくまでも個人的な感想です。

 今回の公案は、そういう意味で、非常に訳しにくい文章です。
 仕方がないので、直訳しました。

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