【落語・講談台本】逢魔が辻⑥
その夜、傷の男とご新造は、屋根船にのり、芦ノ湖の上におりました。
二人は言葉を交わすこともなく、船頭と思しき男が静かに櫓をこぎ、船が音もなく岸から離れていく。街の灯も喧騒も遠くなり始めた頃、外を眺めているご新造に、男が口を開きました。
「さて。これはね、ご新造様の口には合わねえかも知れねぇが、宿の板場に頼んで急ぎ拵えさせた膳だ。こいつでまずは一献、と言いたいところですがね。その前に、やっておかなきゃならないことがある」
固い面持ちで、男に向き直るご新造に、構わず男は説明をいたします。
「ご新造さまとお連れのね。名前、氏素性。どこの何という店で、どういう関係で。何を目当てにどこまで行くのか。俺はどういう位置づけになるのか。そいつをもう一回、頭に叩き込んでおきたいんですよ。
あなたさまは、梅屋のおかみさん。この度旦那様からお許しを頂いて、ご祈願のため、お伊勢様までお参りに行く。そういう話でございましたね?」
「…。ええ」
「『ああ。そうだよ』」
「え?」
「俺は、おかみさんのお店の、奉公人という体がよろしいんでしょう? それとも雇いの荷物持ちということにでもしますか? まあどっちにしてもだ。どの程度の格の店なのかにもよりますがね、女主人は、奉公人にそれほど丁寧な声のかけ方はなさらないもんですよ。『ああ、そうだよ』くらいで、良いのではないですか」
「…ああ。そうだよ」
「そう。まだ固さが残っちゃいるが、直、慣れてくるでしょう。また、慣れて貰わなきゃ困ります」
「…そなた」
「『お前』。言ったでしょう。町人の女の言葉、ちゃんと教えるって。本当はね、二三日、宿に泊って、女将や女中が話すのを眺めるがいちばんいいんですがね。関所越えが明日というなら、こうやって俺が教えるしかない。いざというときに渡せる賄賂をどの程度用意しているのか、それが箱根の関所にどの程度効くのかも解りませんがね、検め婆に簡単に怪しまれないくらいには、ちゃんと覚えといて損はねぇでしょう。ま、俺は俺で、大店の奉公人らしい口ぶりくらいは出来なきゃまずいでしょうがね」
「お前、思ったよりも、真面目な男なんだね」
「ああ。今のはいいじゃないですか。その調子で頼みますよ。何せ一晩しかないんだ。しかしおかみさん、俺のことを、一体何だと思ってたんですかい」
「だって、会って早々にあのような言い方をされたんじゃ」
「『あんな言い方』。俺だって関所は抜けたいんですから、やれるこたぁやっときたいんですよ。何か、期待させてたんなら謝りますがね」
「何を莫迦なこと」
「それじゃ、お連れさんのこと、そちらの手形に書かれた通りの話を聞かせてもらって、俺の氏素性を作り上げたら、これ、食いましょうや。箱根の魚も、しばらくは食い納めだ」
男とご新造は、差し向かいで、ぽつりぽつりと話しながら、刺身や山菜を口に運びます。
「お前にさ、一つ、訊きたいことがあるんだけど」
「なんです?」
「お前、どうして、急いで関所を抜けたいの?」
「どうして、って?」
「だってお前は、男だし、急ぎの用があるようでもなさそうだし、ゆっくり手形を出してもらって、それで抜ければ済むじゃないか。どうしてわざわざこんな危ない橋を渡ろうとするの?」
「ああ…。どうしてなんでしょうねぇ…」
「どうしてなんでしょうねって、私が訊いてるのに」
「ちょっとね、しばらく江戸に居られなくなったんですよ。それで箱根に来た。本当は、このままもうしばらく、いるはずだったんですけどね」
「お前、何か、やったの?」
「何かって、何です?」
「…」
「…」
「俺はね。奥方様が本当はどこのどなたで、何をするために、明日関所を抜けようとしているのか、聞く気はありません。決して聞かせねぇでくださいよ。聞いたら口封じに殺されてもおかしくないくらいの、余程のことがおありなんでしょう? 俺はまだ命は惜しい。
だがね。命は惜しいですが、奥方様のことは何一つ知らなくても、このお方と一蓮托生だっていう腹はね、あのときくくってあります。
まぁ、俺はね、見りゃあ解るとおり、堅気じゃあない。何やかややらかして西に逃げようとしてる半端もんです。だが、半端もんなりの覚悟ってもんを、ひとつ汲んでやっちゃもらえませんかね。それじゃあまだ足りませんかい」
「お前、口が上手いんだね」
「こんだけやって舌先三寸だと思われたんじゃあ、たまんねぇなぁ」
「だって、私がしくじった様子が判ったらお前、逃げればいいじゃないの」
「…へっ」
「それから、その、顔の傷」
「ああこれですかい。これが何か」
「お前、江戸で何かとんでもないことやって西に行こうとしてるんなら、人相書廻ってきてるんじゃないのかい? その傷、訊かれたらどうするつもりなの」
「ああ。…そうかこの傷ね。こいつぁうっかりしてたな」
「どうするの。大丈夫なのでしょうね」
「言葉。戻ってますぜ。じゃあどうします。俺のことやっぱりここに置いていきますかい」
「…」
「…」
「…ま。いざとなりゃ、もっかい切って開くか、火ぃで軽く炙るかしときましょうか? 痛ぇのは好きじゃねぇから、あんまりやりたかぁねぇんですが、背に腹ぁ換えられねぇや。この酒ちっと残して持って帰るか。どっちが跡残んねぇですむかなぁ。はぁ」
「…お前」
「何です」
「どうしてそこまで」
「どうしてって、俺がしくじって面倒なことになるとまずいからでしょうよ」
「それは、そうだけど」
「嫁入り前の娘じゃねぇんだ。今更ちっとばかし増えたって、どうというこたぁありませんよ」
「でも」
「言ったでしょう。舌先三寸なんかじゃねぇって。足引っ張るような真似はしませんから、そんな心配そうな顔しなくたって大丈夫ですよ」
「お前、うっかりしてた、って、今まで、その傷のこと、気にしたことなかったのかい」
「ああ。そうですねぇ。つけられたそのときは、ああ畜生とんでもねぇことしてくれやがって、ってね、困ったことになったとも思ったんですがね。
でもねぇ。この傷ついた後でも、俺に惚れる女は後絶たなかったし、堅気の連中からは、傷がつく前から虫けら見るような目で見られてたしで、何が変わったってこたぁなかったんですよ。こんなちぃせぇ傷で箔がつくってほど裏道は歩きやすかねぇしね、それでまぁ何というか、すっかり忘れちまってたんですよねぇ」
「そう」
「何、大した傷じゃない。触ってみますか? っとと、ああそんな睨まなくたっていいじゃねぇですか。ま、宿戻ったらお連れさんと相談してちょっと考えます。それよりね」
「何だい」
「言葉は随分さまになってきてますがね。堅さがなかなかとれませんねぇ。背中に鉄の棒でもへぇってんじゃねえかって思うくらい、ぴっと背筋が伸びたまま崩れやしねえ。口調も堅ぇや。俺が宿であれっと思ったのも、どっちかっていうと、話の中身云々よりはその堅さの方でね。
俺なんかにバレるんだ、検め婆が見りゃこのままだと、露見しますぜ?」
「…どうすればいいの」
「そうですねぇ。どうしますかねぇ。よっ、と」
男がやおら立ち上がり、ご新造の後ろに腰を下ろす。船がゆらゆらと揺れる。
「お前、何を」
「力がへぇりすぎなんじゃねぇですかね。この、肩も、背中も。って固ぇなおい。武芸の稽古ってなぁ、こんなんなっちまうほど厳しいんですか? これじゃ陰間触ってるみてぇじゃねえか、ったく。稽古もほどほどになすったほうが、よろしいんじゃねぇですか」
「何を無礼な」
「だから、固ぇんですって。冗談じゃねぇですか。怒った顔もそれはそれでいいもんですがね、もっと、力抜かないと。そう。もっとゆるっとしてたほうがいい。ゆっくり、息する。そう。ゆるっと。町方の女ってなぁ、もっと柔らけぇもんですよ。背中も、中身もね。
何がご本懐かは知りませんがね、武家の奥方に戻られるのは、関ぃ抜けてからにしなせぇよ。思い込むんだ。あなたは呉服屋のご新造さま。子宝授かりますようにとお伊勢に向かうところ。人に信じてもらうためにはね、先ず自分が信じなきゃいけねぇ。わかりますかい?
ねぇご新造様。お店はどんな構えだ? 奉公人はどのくらいいる? 旦那様ぁどんなお方だ? ほら、ほんとのご亭主の顔なんざ浮かべてたら、また堅くなるぜ? 力抜きなよ。身体預けていいから。そう」
「可哀相になぁ。こんな可愛い女が、大変な役目負わされてさ。江戸の女は、汁粉だ着物だ櫛だ役者だと、楽しいことで頭ん中一杯にしてんのに。何であんただけ、そんな思い詰めたような目で命賭けなきゃいけねぇんだろうな。可哀相にな。
だけどな。明日は、俺がついててやるから。侍でも堅気でもなくてすまねえな。でもあんたがもし、明日しくじって、命落とすことになっても、一人じゃ死なせねぇから。俺が閻魔様んとこまで、ちゃんとついてってやるから。な。
あんたにこんなことさせてる野郎のことは、今はさ、忘れちまいなよ」
そう言いながら、男が、ご新造の袂に触れようとしたとき。
「なるほどなぁ。こりゃぁ女がコロッと騙されるのも無理はねぇ。でもな。俺が命賭けてんのは、箱根の関抜けじゃねぇんだ」
そう言って男の背中に回した手で、ガリッと引っ掻いたからたまらない。
「があああああああっ! てめぇこのアマ、何しやがるっ」
「ああやっぱりそれがお前の本性だよねぇ。でも、そうかい。お前の目には、あたしがまだ女に見えてんのかい」
「何、言ってやがる。てめぇ、何のつもりでこんな」
「だからあれほど、この膏薬を塗れと言ったであろうが。まだ痛みが治まらぬと言うなら、また塗って進ぜようか?」
膏薬の壺を袂から取り出して弄ぶご新造の口からこぼれたのは、あのときの医者の声。
「…お前。 あの藪医者。 なん」
「いやぁ、申し訳ない。手前が灸なんぞ据えたせいで、随分痛い思いをさせてしまって。こんな唐辛子入りの軟膏なんぞ塗らずに、宿で大人しく湯にでも浸かってりゃ、もう少し早く治ったでしょうに。とんだ災難でございましたねぇ」
ご新造の口から再び零れたのは、あの、与吉の声だ。
「…てめぇ。与吉か。あれもこれも全部てめぇか!」
「そうだよ。でなきゃ折角箱根の宿来たってのに、何で好き好んでてめぇなんかと相部屋で寝なきゃならねぇんだよ。
でも、早々に酒と痛みで潰したからとはいえ、ここまでバレずに済んだんなら、俺の化けっぷりもなかなか大したもんだろ? まあ、女の化け方についちゃ、お前の講釈も多少は役に立ちそうだ。精々使わしてもらうぜ」
「…てめぇ。どういうつもりだ。俺に何の恨みがあってこんな因縁ふっかけやがる」
「何の恨み、か。お前、本当にわからねぇのか。それとも多すぎて見当もつかねえか?」
「…あ?」
「ゆっくり考えな。まあ、咄嗟のこととはいえ、治りかけてたところにまた痛い思いさせちまったせめてもの詫びだ。この船代は、こっちでもってやってもいいぜ」
そう言いながら与吉が、膏薬の壺をコロリと転がし、ふたたび袂から取り出したのは。
「あっ。それは俺の財布じゃねえか! 胴巻きから俺の銭盗んだの、てめえか!」
「俺の銭って、元はお前に泣かされたお人の銭だろ。図々しいにも程があるんじゃねえのか」
「うるせえ! 返しやがれ」
襲いかかった男を、与吉、さっと体をかわし、船縁につんのめった男の背中を、どん、とついた。
押された男は勢い余って体を崩し、ざぶん。そのまま水の中に落ちたから大変だ。
「助け、助けてくれ。おれぁ、およげねぇ。助けてくれ」
船の灯で後ろからぼぅと照らされた与吉、すうっと冷たい顔で見下ろしながら。
「お前、そうやって、助けて欲しいと言った相手を、助けてやったことが、あるのか?」
「頼む、助けてくれ、こんなところで、俺は」
しばらく与吉は、そうして男が水中でもがくのを見ていましたが、何を思ったか、その細い左腕からは思いもよらぬほどの力で男をぐっと引き上げたかと思うと、そのまま男に顔を近づけ、怒気をはらんだ声で囁きました。
「ひとりでいい。お前が騙し不幸にしたお人のことを、思い出せたら船の上に引き上げてやる。その上で詫びぃ入れて性根を入れ替えると誓うなら、命も助けてやる。水ん中で、ゆっくり考えろ」
「誓う。誓うから助けてくれ」
「俺が寄越せと言ったのはまことの詫びだ。てめぇが助かるための口上じゃねぇ」
そのまま左腕を放しましたから、男は再び水の中。
幾らざばざばと音を立て騒いだところで、ここは岸から随分離れております。四方はどこまでも冷たい水。
どれほどそうしていましたでしょうか。もがく男のしぶきが少し小さくなり始めた頃、与吉は再び男を船縁に引き上げました。
「そろそろ、思い出したか?」
「…。てめぇ。どこの、回しもんだ」
「…」
「俺も、あんまり偉そうなこたぁ、言えねぇがな。てめぇ、随分修羅場荒事に、慣れてるふうじゃねえか」
「…」
「待て! 待てよ。待ってくれよ。
なあ船頭。あんたこの男なんとかしてくれよ。このままじゃ俺ァ死んじまう。あんたも自分の船で人が死んだとなりゃ夢見がわりぃだろ」
「まだそんなこと言える余裕があるのか」
「待てって」
バシャバシャというしぶきの音だけが、響く。
与吉も、船頭もただ静かに、船の上でその音を聞いております。
そして、ふたたび引き上げて。
「もうそろそろ思い出さねぇと、まずいんじゃねえのか?」
「…」
「…おい」
「…てめぇ。ずっと。俺に。思い出せようと、してたな。
俺を、恨んでいる奴が、居るって。
だけどな。俺は。女は苦界に堕とす前に、必ず惚れさせる。金は、小口で分けて盗る。そりゃ、何度も、盗んじゃいるがな、いきなり店が、傾くような盗み方は、しねぇ。それに俺ァてめぇと違ってな、どんだけひでぇ目にあっててもな、人は、殺したことねぇ。
誰が、俺を、恨んで、居るって。ここで俺が、恨みながら、死んだら、てめぇ、自分を、殺すか? お偉ぇ、こったなぁ」
与吉の目に、すっと怒りが浮かんだ。
そうしてさっと右手で髪に刺さった簪を抜いたかと思うと、男の目に刺そうとした。
「小頭!」
「あの女ァっ!」
ほとんど同時に叫んだようでした。
「てめぇ、さっきからその簪なぁ! しゃらしゃらしゃらしゃら、うるせぇんだよ! 何のつもりだてめぇは!」
「…」
「…」
簪の先は男の左目にまさに刺さる寸前、そのまましばらく見合っておりましたが。
与吉はぐっと男を船に引き上げ。
げほげほと喘ぐ男を、冷たい目で、黙って見下ろしておりました。
「何でそれ、てめぇが持ってんだ」
「…」
「てめぇ、あいつの、イロかなんかか」
「…」
「俺が女に身銭切ってやることなんか、滅多にねぇってのに。こんなこたぁ初めてだ。あいつも案外やるじゃねえか」
「…もらったんじゃねぇよ」
「…あ?」
「こいつはな、根津の岡場所で自死した女郎の喉に刺さってたもんだよ。ちっと無理言って借りてるだけだ」
「…」
「…」
「…へっ」
「…」
「あの女がなぁ! いちっばん、腹が立った!
いっつもいっつも、ぬくぬく幸せそうな面して笑ってやがって。
てめぇの店に盗みに入られてんのに、ちょっと口から出任せ並べてみりゃ、コロッと騙されやがった。小便臭い小娘でもあれよりゃぁ身構えるぜ。握り飯だぁ? あんな女に、何も食えねぇ辛さの何がわかんだよ。哀れみ投げつけるような目ぇしやがって。
何にも悪いことなんか起るはずがねぇと、信じて疑いもしないその面が、憎くて憎くてたまらなかった。真っ白なその顔、染みぃ落として真っ黒にしてやりたくてたまんなかったよ!
そうかよ。死んだのか。へっ。
思ったより持たなかったな。目と鼻の先ぃ置いといたのに、亭主は何してたんだろうなあ」
「小頭!」
「怒ったかい。へぇ。てめぇ。そういう目してた方がずっといいな。
俺にこの傷つけたやつも、そういやそんな目、してやがったよ」
「詫びる気は、ねぇんだな」
「てめぇに詫び入れてどうすんだよ。
詫び文句唱えて見せりゃ何か元に戻んのか。
仇敵ィ討ちにきたんだろ?
へっ。最後に堕とそうとした女がてめぇか。俺も焼きが回ったな」
その数日後のこと。
小塚原刑場で、男が一人、死罪となったと、神田で店を開く亭主の元に、番屋の役人が、知らせに参りました。
何でも、その男の顔の左の頬には、大きな傷がくっきりと、残っていたそうでございます。
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