夢野久作「瓶詰地獄」考察①

 夢野久作の「瓶詰地獄」について、綴ります。
 複数の手紙を並べてあるという構成の短編です。未読の方で、興味がおありの方は、青空文庫にテキストがありますので、お読みください。

 この作品は、背景を説明してくれないタイプの作品で、解釈が多数存在します。しかも、そのいずれもが「でもやっぱり、スッキリしない点が残る」という具合。だからこそ読者の心を捉えて放さないのでしょう。

 読後感想を兼ね、考察を綴ります。
 まずは、最初から順番に第一印象の感想を綴り、それから、細かい考察に移る予定です。
 ネタバレあります。未読の方はご注意を。


■役場の文書の内容について

「潮流研究のために流した、赤封蝋つきのビール瓶を、見つけたら届けろと、村民に言い渡していたら、なんか違うのが届いたので、一応報告します」という内容です。
 樹脂封蝋つきのビール瓶が3本見つかったらしい。
 それぞれ見つかった場所は、ひとつは砂に埋もれ、ひとつは岩に挟まりという具合で、その距離は半里から一里ほど離れていたとのこと。ざっと200メートルから400メートルくらいの間隔でしょうかね。
 ところで、もう1本はどういう見つかり方をしたんでしょうか。
 どういう状態で見つかったか、書くなら3本全部書けばいいだろうし、必要ない情報なら2本の分も書く必要はないじゃないですか。
 どうして2本分だけ書いてあるんだろう。
 どうして残り1本は書いてないんだろう。


■第一の手紙について

 とりあえずこの手紙から解ること。
・この手紙を書いた誰かと、もう一人が、離れ島に漂着している。
・この手紙より前に何度か瓶詰の手紙が書かれている。
・この筆者は、初めは救助を待っていたが、この時点では救助されるつもりがなく、もう一人と心中しようとしている。

 よくわからないこと。
・誰が書いたのか。
・いつ書かれたのか。
 救助が来たから急いで書いているという内容の割には、結構な長文です。


■第二の手紙について・主に太郎像

 第二の手紙はそこそこ長文です。
 しかし、長文のわりに、よく解らない部分が幾つも残る。
 非常に厄介な文章です。

 この第二の手紙を読んだ直後の、私の印象は、「太郎、思い込みが激しそうなタイプだなあ」でした。
 現実を自分に都合よく解釈するタイプに見えます。

 まず、「自分は11歳で、アヤ子は7歳のときに島に流れ着き、それからもう10年くらいは経っていると思う」と書かれていますが、ほんとかよって感じです。
 幾ら果物が豊富で、獣が全くいなかったとはいえ(そのことも不思議ではあるんですが)、肥後守を片手に野山を駆けまわって育った庶民の悪ガキならともかく、乳母が育てた上流階級のボンボンにしては、サバイバル能力が高すぎます。
 11歳から子供だけで生き延びていたというのが、信じられません。

 ものすごく不思議なのは、この手紙の中に、「アヤ子を独力で守らなければならないという重圧」「大人に頼れない心細さ」が全く書かれてないことです。いきなり離れ島に子供だけで漂着したらしいのに「幸せでした」としか書かれていません。親を恋しがる記述もありません。
 はっきりいって、異常だと思います。

 そして、「こいつ、思い込みが激しそうだな」と私が思ったのは、太郎が「アヤ子も、同じように『幸せ』だと感じていたはずだ」と信じ切って、それを欠片ほども疑ってないからです。

 わずか7歳のアヤ子が、太郎と二人でとはいえ、いきなり島に放り出されて、心細くないわけないじゃないですか。それから何年経とうと、早く助けてもらいたいと思っているだろうと考えるのが普通だと思うんですよ。
 それなのに、です。
 太郎は、アヤ子が成長するにつけ、それに恋慕の情を抱く、それだけならまだしも、「アヤ子も自分に対して、常に自分と同じ思いを抱いている」という記述をしています。
 はっきりとした言葉で伝えられたわけでもなさそうなのに、です。

 こういうことをいうやつ、たまにいますよね。
「彼女のほうが誘惑してきたんだ」
「あんな態度をとるのは、彼女が僕を好きだからだ」
「言葉で言わなくても伝わっている。彼女と僕は相思相愛だ」
 そんなんじゃないよと幾ら説明しても全然解らない。
 私には、太郎もこのタイプに見えるんですよ。
 ずっと二人きりで、裸同然の恰好で過ごしてきた、という事情はあるにせよ、ちょっと思い込みが過ぎる気がする。

 その最たるものが、アヤ子が「お兄様。私たちのどちらかが死んだら、あとはどうすればいいのでしょう」と言ったときの、太郎の反応です。
 太郎、いきなり、「神様、アヤ子は何にも知らない乙女だから、あんなことを言ったんです!」と懺悔し始めます。あんなことって何だよ。
 二人きりしかいないのに、一人が死んだら、一人きりになる。
 残されるのはものすごく心細い。
 相手を残すのは、相手を苦しめることになるようでつらい。
 普通に聞いたら、そういう意味でしょ? アヤ子の発言は。
 これ、何か、おかしな発言なんでしょうか? 
 何を懺悔する必要があるの?
 これが変な意味に聞こえる方がおかしいんじゃないのと、私は思う。
 このくだりを、多分太郎が解釈したであろう内容と同様「アヤ子は太郎との子供を欲しがったんだな」と何の疑いもなく受け止めた人は、ちょっと気をつけた方がいいような気がします。
 余計なお世話ですかね。

 で、太郎はその後、何か神様に祈った挙句、それが叶わなかったことで「そうか神様はいないんだ! じゃあ好きなようにしよう!」みたいなことを考え始める。怖い怖い怖い。太郎ほんと怖い。

 この瞬間から、「神様の足凳」はただの「高い崖」になってしまうわけですね。神様はいないから。
 また、このとき、崖にいつも掲げてた葉が枯れている、というのが、巷で矛盾点として上がっているひとつなんですが、これはさほど私は気にならなかったです。

 葉を崖の上のさらに一番高いところに掲げるのですから、ちょっと危険じゃないですか。足を踏み外して転落したら大変でしょ。ならば枯れかけた葉の交換は、アヤ子ではなく、いつも太郎がやってたんだろう、と思うのですよ。
 その葉が枯れてたということは、もう随分前から太郎は「助けなんかこなくていい」と内心思ってて、全然取り替えてなかったんでしょう。
 たとえアヤ子が「枯れてるから取り替えておいて」と頼んだところで、太郎がやらなきゃそれまでだよね、という状況に思えます。
 その結果「どうしてお兄様は、枯れた葉を替えてくれないんだろう?」と不安に思いながら眺めるアヤ子の表情を、太郎が「うるんだ目でボクを見てる! アヤ子もボクと同じ思いなんだ!」と勘違いする、みたいな悪循環。
 なので、私はこの点には、それほど違和感は感じないです。

 そして、「ぐるぐる眩暈に襲われ」た後「ゲラゲラ笑いながら」アヤ子の名を呼び、探す。
 太郎、この時点でもう、精神的にちょっとおかしくなっちゃったのかなという気がします。
 そしてアヤ子を見つけるわけですけが。

 このときのことを太郎は「アヤ子の決心が解ったから、抱きかかえて小屋につれて戻った」と書いています。
 でも、太郎がどんな風に理解したのか知りませんけど、もしもアヤ子が例えば自殺するつもりなのだったら、いっそ崖の上から飛び降りればいいわけで、わざわざ溺死しようと満潮をじっと待つ必要はないのですから、少なくとも自殺するつもりだったという可能性は、実際には著しく低いと言わざるを得ません。

 まあ百歩譲って、アヤ子が本当に自殺しようとしてたんだとしましょう。
 でもそれなら、まずは言葉で呼びかけて意思を確認して止めようとすればよくないですか? なぜ無言で近づいていきなり抑えこまにゃならんのだ。

 そう考えると、このときの客観的な事実は、
①アヤ子がお祈りをしている後ろから太郎が飛びかかり、抑え込んだ
②このときアヤ子が暴れたかもしれないが、最終的には抑え込まれた
③そのままそこで一夜を明かしてから小屋に戻った
(※アヤ子を見つけたときは夕方だったのに、小屋に戻った時は日が高い)
だろうと考えられます。
 こう書くと、ちょっと違う光景が見えてくる気がするでしょう?
(ちなみに、「アヤ子が暴れて二人とも全身傷だらけになった」のくだりは、このとき以外に別の理由もあると私は考えているので、それについては、次回説明します)
 しかし太郎はそれでも「肉体的には禁忌は犯してない」と書いています。

 つまり、ここから推測される事実は、「太郎はアヤ子を襲い、しかもその事実の記憶を脳内で都合よく改竄した」である可能性が非常に高いです。

 そもそもこれ、「手紙」じゃないような気もするんですよ。
「手記」というくくりの方がしっくりきます。
 手紙だというのなら、これ、誰宛に、何の目的で書いたものなんだろう。

 それから、最初の持ち物。
 鉛筆、ノート、ナイフ、この辺りはまだわからなくもないですが、虫眼鏡、水を入れておいたビール瓶、聖書ですか。
 よく解らない取り合わせです。
 これらがすべて、本当に最初から太郎の私物だったというなら、こいつらそもそも船でどこに何しに行こうとしてたんでしょうか。
「さあ無人島に行くぞ」感満載の持ち物じゃないすか。
 何だかなぁ。
 まあ、余裕があれば、この点も後で考えるかもしれません。


■第三の手紙について

 太郎とアヤ子の二人が兄妹であったことがここで明かされます。
 第一の手紙と第二の手紙で示唆されていた「罪」とは、近親相姦のことだったのだろうという推測が成立します。
 ここで違和感がひとつ。
「ボクタチ兄ダイハ、(中略)コノシマニ、クラシテイマス」と書かれているんですが、「コノシマニ」って、変じゃないですか?
「この島に」と書いても、読む人が「どの島のことだよ」となるだろうことは想像つくだろうに。
 そういうことに気が回らない程度にバカだった、と考えるには、第二の手紙で窺える太郎少年は知能が高すぎるんです。
(太郎青年はまた話が別です)

「この島に」という表現に違和感がなくなるのは、太郎とアヤ子の両親が、この島のことをちゃんと知っている場合です。
 例えば、太郎とアヤ子が流れ着いたらしき島が、彼らの当初からの目的地であった場合とか。
「あの島に行ってきます」と両親に言い残して旅立ち、その途中で遭難した。これなら、「この島にいます」とだけ書けば両親はわかってくれると彼らが判断することにさほどの不自然さはなくなります。

 あるいは、両親が既に二人とも他界している場合。
「お父様もお母様も、神様の御許に行き、天から私たちを見ている」と思っている場合ですね。この場合も、「この島に」に違和感はなくなります。
 またこの場合なら、「お父様とお母様『のために』お祈りをした」というくだりや、両親ではなく乳母夫妻と船でどこかに行っていたことなどにも納得がいくのですが、第一の手紙と矛盾してしまいそうで悩ましいところです。

 細かい点の考察については次回以降。

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