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「小乗」は蔑称ではない

昨今の学会では、「上座部仏教に対して『小乗仏教』という呼称を使うのは蔑称に当たるから控えるべきだ」という風潮があるのに対して、私から一筆申し上げたい。

まず、仏教は八万法蔵と言われるように膨大な教えがある。その中でも低劣な教えと高尚な教えが入り混じっている。
ある人は全部ひっくるめて、「仏教は多様でその教えは限りないが、どれもすばらしく、優劣の差別なんてない」なんてことを言っているが、この人は仏教を何も分かっていない人です。
釈迦自ら、説かれた経典の優劣をよく示されたものだ。経典の最後のほうでは大抵、その経が一切経の中でどれぐらいの地位にあるかが説かれている。
釈迦は、「私の教えは膨大だが、どれも優劣はなく、どれから取り掛かってもよいし、どれをむねとしてもよい」とは全く言われていない。なので、上の人の主張は却下する。

仏典は大きく分けて大乗と小乗に分類される。
釈迦は菩提樹で覚りを得た後、華厳経などの例外を除いて、まず阿含経などの声聞の経典を説かれた。その後広く大乗経典を説き、その中で先に説いた声聞の教法や弟子を、蚊虻・蛍火・羊車などに譬えて、菩薩道を歩む人を大人・日光・牛車などに譬えて、小乗と貶した。

今談ずるところの法は、浅ましき小乗の法なり。
されば、仏は則ち八種の喩えを設け、文殊はまた十七種の差別を宣べたり。あるいは蛍火・日光の喩えを取り、あるいは水精・瑠璃の喩えあり。
ここをもって三国の人師も、その破文一つにあらず。

「聖愚問答抄」日蓮

この外、牛驢の二乳、瓦器・金器、蛍火・日光等の無量の譬えをとって(仏は)二乗を呵責せさせ給いき。

「開目抄」日蓮

羊車は牛車に比べて劣った乗り物であり、蛍火は日光に比べればその明るさは遠く及ばない。
お釈迦様自ら声聞乗を小乗と呼んでいるのだから、我々が用いて何の過失があろうか。どうして非難されなければならない。
いや、むしろ仏説に随順しているから適切といえる

そもそも蔑称というのは、見下して馬鹿にした名称のこと。
悪意がなく、本質を突いて批評するなら蔑称には当たらない。
例えば、「小玉スイカ」は普通のスイカに比べて小さいからその名が付いた訳で、何ら蔑称ではないのは明らか。事実を言っているまでであり、軽蔑の意を含んでいないのだから不適切な表現ではない。
だから、大乗仏教徒が上座部仏教徒(声聞弟子や声聞経)を小乗と言っても、何ら非難されることではないし、何も問題ではない。

「小乗は蔑称だ!」「小乗は蔑称だ!」と喧伝している学者や僧侶は、そもそも釈迦の教えを正しく理解していない。それだから、全く用いるわけにはいかない。
このような者は仏教徒ですらなく、外道の徒である。
本物の仏教徒なら、仏教徒でありたいなら、胸を張って堂々と小乗という呼称を用いようではないか!

思うに、最近の学会は「蔑称であるから控えるように」という風潮を弘めて、真の仏教である大乗を阻害しようとする魂胆が伺える。
「小乗」という言葉を蔑称と見なしてその使用に圧力をかけ、小乗を擁護して大乗を憎悪する魂胆も見え隠れする。
上座部を擁護するなら大乗を擁護するのもあって当然なのに、それはほとんどない。
今の人は、大乗の国に生まれているのに大乗を護ろうともせず、大乗を貶す。小乗に過ぎない原始仏教を真実と思い込んで普及させる。
これこそ破法であり、末法の姿を如実に表している。

この国において、上座部と大乗のどちらが優位であるかはとっくにケリが付いている。
小乗と大乗の優劣さえ分かっていない輩が呼称の是非を問うなと。釈迦の教えを少しでも理解できてから人を扇動しろと。

「いいや違う、学者が言っていることだから正しい。お前みたいな肩書の無い奴の言うことは信用できない」と思われるかもしれない。
しかし、事の正否は誰が言っているかではなく、何を言っているかが重要だ
世間で偉い学者や高名な僧侶と呼ばれている人たちが言っていることが一概に正しいとは限らない。
ただ、言っている内容で判断すべきだ。

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島田 兼好(ノーマスク)
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