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仏教学者を警戒せよ

最近の仏教学だとかいうものは、仏教の本質を学ぶことから遠く離れてしまっている。経典の成立時代や出所なんかを探ることに必死で、経典の言葉をそのまま信じる、という一番大切なことを忘れてしまっている。

「仏道修業の根本は何か」と問われれば、それは「信」である。経文を信じる力があってこそ、仏道修行を円滑に進めることができる。「信」なくしては仏道は修め難し。「信」なくして経典を読む人は魂の抜けた人形のようなものだ。

仏法は海の如し、ただ信のみよく入る。信はすなわち道の源、功徳の母、一切の善法はこれに由って生ず。

摩訶止観 巻第五上

「信は手の如し」と。人に手有りて宝山中に入らば、自在に宝を取るが如し。信有るも亦た是の如し。仏法の無漏の根・力・覚道・禅定の宝山中に入りて取る所自在なり。
信無きは手無きが如し。手無き人は宝山中に入るも、則ち取る所有るあたわず。信無きも亦た是の如し。仏法の宝山に入るもべて得る所無し。

大智度論 巻第一下

そればかりか、最近の学会では大乗や漢訳の経典を否定し、小乗や梵語の経典を弘めて真の仏教を破壊しようとする魂胆が伺える。
「大乗は仏説に非ず」「原始仏教こそ真実」「経典はサンスクリット語、或いはパーリ語で読まなければ真意は掴めない」とかいう邪説を広めて、純粋に仏教を学ぼうとする者の心を挫いている。
仏教に精通しているように見えて、返って仏教を台無しにしているのだ。衆生を悪道に導く悪魔の眷属である。

経典の信憑性を今更になって疑い、出所なんかを考古学的に分析し、あやふやなところが少しでもあれば、「これは創作だ」とか「偽経である」と宣言して経典を信じる心を失わせる。痛ましいや!
経典は何百年も前に国から国へと伝えられ編纂されてきたのだから、その途中で原典が失われたり、見つからなかったりするのは当然の成り行きではないか。出所不明の経がいくつも存在するのも当然の結果。なぜ原典にこだわる必要があるのか?
原典を忠実に翻訳することができたら、それもまた原典と呼べよう。二つも原典があるのなら、他国の言語の経典を必ずしも保持する必要はない。

仏典を考古学的に解明しようとする時点で浅はかだ。経典の信憑性を疑ってばかりいたら、いつまで経っても仏教を悟ることはできないぞ。今は既に目録というものが編纂されているので、信憑性の判断はこれに基づけば良いと私は考えている。
また、正しい経は未来まで失われないように、仏神の加護もあって現代まで伝わってきたのだ。
「科学的・考古学的に認められた経典でないと信用できない」なんていう人は未だに仏教の初門にも入らざる者。
自分たちの目に見えることしか信用せず、経典に説かれる事柄で科学的に解明できないものは作り話として無視する……。これは、見識の狭いことも甚だしい。

また、日本人は普段から漢字を使用しているので、経典の言葉は漢文、書き下し文が最適である。それをカタカナにして理解させようとしたら、返って仏教を分かりにくくしているのだぞ。
仏をブッダとか、阿難をアーナンダとかしてカタカナを多用すれば、本物の仏教に近づいたでも思ったか? 悪趣味だなぁ。そんなことをしても返って学ぶことを困難にさせているだけだ。
どうして原語にこだわらなければならない?言葉に振り回されてはいけない。肝心なのはどの言語で読むかではなく、どれだけ経典の言葉を理解して信じられるかだ。意味を解するために言葉があるのであり、言葉のために教えがあるのではない。

仏教を学ぶ上で大事なことの一つは、経典の言葉をそのまま信じること。これができないと、いつまで経っても得道は無理。
既に見事に漢訳されたお経があるのだから、今更サンスクリット語を現代日本語に訳して読む必要はない。漢語なら難解な仏教用語も理解しやすいし、経典の言葉はその国に馴染み深い言語で読むのが最も相応しい。

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