社員のリレーブログ⑦~対話の力~
こんにちは、志高塾です。
ついに師走に入った本日は、社員のリレーブログ3周目。竹内の作文をお届けします!
責任は、「取る」ものではなく「持つ」もの。押しつけられるものではなく、自分の内から湧き上がるもの。
竹内の作文③~対話の力~(2023年12月1日)
日大のアメフト部の問題。2018年の危険タックル事件の後、年度内の対外試合禁止処分を経て、外部から監督を招聘し再スタートを切り、翌年関東学生リーグの1部昇格を果たした。昨年春からは日大OBを監督に据えての新体制が始まっていたのだが、今回の部員による寮内での薬物所持・使用という不祥事を受けて、「廃部」へと進むことになった。大学のこの対応に関しては、この問題に関与しない学生たちもが活動の機会を失ってしまうとして、「連帯責任」の是非も問われている。現状として活動停止中なのだから、少なくとも部の今後は、全貌がもっと明らかにされたうえで決めていくべきである。
さて、この「連帯責任」は、本来は不法行為を働いた複数の者が連帯して責任を持つことを指している。つまり、ルールを破った誰かのために、それをしていない誰かまでが罰を受けるというのは正しい形ではない。ところが、人を管理する上でこのような考え方が用いられることは決して珍しくなく、例えば教育の場では誰かが提出物を忘れたり、掃除をさぼったりすればその人物が属する班の全員を減点し、子ども同士での監視に発展させることもある。私自身が中学生だった頃にはもっと意味の分からないことがあって、拾い忘れたボールが1球あったせいで、野球部全員が放課後の練習時間中延々とボール箱に向かって大声で謝罪させられていた(弟がその時の野球部に入っていたのでどうしても忘れられない)。他の部活をしている同級生に見られることになるので恥ずかしさこそあれど、もし、それを大事にすることを説きたかったのだとしたら、それを使用するメニューを当面外すなり、対策について話し合わせるなりした方がよっぽど自分たちで考える時間になったと思う。
責任感とは、想像力である。「こうなるかもしれない」「相手はこう感じるかもしれない」と考えを巡らす時間を持たずして、「気を付けよう」とはならない。それなのに、この「想像する」という過程がゆるがせになっている。「このままじゃだめだ」と一度は自分を奮い立たせても、律し続けることはすごく難しい。そんなに大変なこととじっくりと向き合わないままに何か事が起きて追及を受ければ、結果だけに目を向けること、失敗への恐怖、さらにはそれを隠そうとする意識に繋がってしまう。責任は「取らせる」ことよりも「持たせる」ことの方が成長を促すはずだ。
人は家族なり学校なり職場なり、何かしらの社会の中でその一員としての役割を担っている。本当は、大人も子どもも関係なくそれぞれに、自分の言葉、行動、なんだったら生きているということに対してすらも責任が発生している。それは自分では意図しない、希望していないことかもしれない。だが、その周囲と接する中で「誰かがやってくれる」のではなく、ほんの少しでも自分が背負っているものがあるのだと自覚できれば、自らを見つめ直せるのではないだろうか。コミュニケーションは相手の想像力を刺激すること。そのことを自分の頭において、目の前の人とかかわっていきたい。