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自分に何ができるのか。【8月15日の日記】

朝から、古いPCのデータの始末に悪戦苦闘していた。
BGM代わりのテレビ番組は、甲子園中継。

終始興奮して話すアナウンサーの声、
打球を打ち返すバットの金属音、
スタンドの懸命な声援とブラスバンド。

画面に注目せずとも、それだけでもう、
球場の熱気が十分わかる。



サイレンの音が響く。
試合の終了、あるいは開始を告げるものかと思って画面に目をやる。
そこには、黙祷を捧げる球児たちの姿があった。
時計の針は、午後0時。



このサイレンのことを知ったのは、
幼い頃に夏を過ごした浜松の祖母の家。
庭で遊んでいたわたしが鳴り響く音に気づいて、
傍にいた伯父に何かと尋ねた。

終戦当時、伯父は8歳だった。

畑にいると遠くで空襲のサイレンが鳴った、
空に飛行機が小さく見えた、
そんな話を、伯父はたまに短く語った。
幸い、と言ってよいのかわからないが、
祖母の家は、頻繁に空襲があった地域ではなかった。


その一方で、昭和20年に入ってから山形へ疎開した親戚がいる。
当時のよわいは、ふたつかみっつ。
疎開直前は、現在の東京都墨田区東向島で暮らしていた。

当時の記憶は物心はあまりないものの、そのまま墨田区で過ごしていれば命はなかったかもしれないと話す。

そうであるなら、わたしはその方とお会いできなかったかもしれない。
人知を超えた巡り合わせのようなものを感じずにはいられない。



世界情勢の影響もあるのだろうけど、今年はことさら、戦争に関することにじかに触れる機会が多い。

必要があって読んだ恋愛小説は、ウクライナを題材にしていた。

それがテーマと知らず、たまたま拝聴する機会があった講演は、やはりウクライナの現状を生々しく伝えるものだった。
特に、子供たちのことを。
戦火の最中にいる姿や、そこから逃れたものの心の傷が癒えず、互いにそれを自由に語ることで心を開くワークショップの様子など。

そして、『フェデリコ2世』という皇帝のこと。
中世ヨーロッパにおける、キリスト教の十字軍とイスラム側の、200年にも及ぶ聖地奪還の戦い。
そこに、停戦と和平をもたらした人物である。


終戦記念日には、今の平和のありがたみと忘れてはならない歴史に思いを馳せると同時に、もうひとつ、覚えておくべきことがある。

それは、戦争は、いつか終わるということ。

人類の歴史において、終わらなかった戦はないという。

人が始めたものであり、
人の意思次第で、
終わらせることができるのだ。







多様な情報、側面に触れるほど、
まとまらない想いの堂々巡り。
甲子園のサイレンの音から、意識はすっかり時と場所を超えて飛ぶ。
そして、惑う。

戦争を直ちに止める力量なんて持てない。
それでも、非力を嘆くだけでもいられない。

自分には何ができるだろうかと探す。


───── 誰かの発信に耳を傾けたり、

発信者を支援したり、

身近な人との友愛を意識したり。

月並みではあるけれど、わたしの場合はそうやって向き合うしかないのだと痛感する。

さらに、目の前のことに精一杯励む。
例えば、白球を存分に追える自由と平和に感謝しながら、夏をめいいっぱい過ごすように。

真摯に取り組めることといえば、まだまだ稚拙ながら、
わたしには、書くことしかない。


心を抉るよりは、触れてよかったと思われるものを。

俯くより、前や上を向けるものを。

悲しみばかりが渦巻くより、少しでも愛と希望が見えるものを。

些細な日常の和みや、生きる悦びにフォーカスを合わせたものを。

これからは、そういう文章を書きたいと、あらためて考える日にもなった。

そのために、まずは断捨離や古いPCの処分という一歩に引き続き励む。


写真も撮る。


#8月15日の日記集



今回、吉野千明さんが主宰されるこの8月15日の日記集に参加させていただくご縁ができたこと、非常にうれしく思います。

吉野さん、ありがとうざいます!


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