物語を書くために④ 「物書き」と言ってしまっていいですか?
今回は、何の学びでもなく自分の指針みたいなものなので、参考にされてもされなくても、どうぞよしなに。
物書きとは、本来は小説家など文章で食べている人を指します。
この定義なら、わたしは物書きじゃありません。
今、文章で食べてませんし。
noteの有料記事すら、まだひとつも書いたことがありません。
しかしながら、わたしは勝手に『物書き』と名乗ることにしました。
何一つ稼いだことがないとは言いません。
大昔、とあるコミュニティの文集に投稿したら採用されて図書券(古!)をいただいたり、化粧品や通販商品の感想を送ったら、それが冊子に掲載され、商品券をいただいたことがあります。
謝礼程度ですけどね。
勝手に名乗る、この『物書き』。
『何か書いている人』と広くとらえた意味です。
さすがに、職業物書きとは言えません。
開業届なんて出してませんし、社会において書かされる職業欄は、今のところ「無職」を選ぶしかありません。
どこで名乗ってるかといえば、SNSでのプロフです。
(ここでも、さっきプロフ書き換えました……)
ご欄になった方から、「小説家なんですよね?」と言われてしまいました。
そりゃぁそうですよね。
さすがに肯定はできませんでした。
が、「ごめんなさい、違います」と否定もしませんでした。
否定してしまったら、物を書くことに一生真剣味が生まれない気がしたからです。
今の時代、特にSNSなんて好きな肩書を名乗っている方が多いじゃないですか。
自分で作った肩書を名刺にして、実際その活動をお仕事につなげる方もいらっしゃる。
具体的には書きませんが、ほにゃららアドバイザーみたいな肩書を持ってます。
仕事を辞めてから、お金を払って講義を受けることで取得した肩書です。
ライターになった時に使うつもりでした。
それだって、ある事業団が作った肩書。ライターのポートフォリオだったら書くことはできるのでしょうけど、正式な履歴書では通用しないやつです。
ここに書いても、ご存知ない方が大半だと思います。
物書きが生業だもと思っています。
思うというか、認識したと言いましょうか。
生業も、本来は暮らしを立てるための仕事、職業のことです。
でも、「『生』まれながらの『業』」という意味だと思えば、書いてるのが一番「業」なんです。
ここでの「業」は、本務とか、「人間の業」のような「行い」だと自分でとらえています。
アラフィフ世代は、第二の思春期と言われています。
中二病がぶり返すとの意味ではありません。
家族や自分の環境の大きな変化を迎え、ふと、自身の生き方を見つめ直す時期なのです。
その時、「14歳~22歳の頃に自分が夢中になっていたもの」を思い出すとよいとのこと。
その頃の無邪気な熱中が、本来の自分の姿。
何をしてたかといえば、やっぱりひたすら書いていました。
今でいうエッセイ漫画やラノベ小説チックな小説、日記、作詞。
ネットなんてありませんし、誰にも見せずにひっそりと。
書き物に限らず、その当時の熱を貫いたアラフィフさんもいることでしょう。
進路や職業は、自分の本意で定めるのが理想的です。
しかし、わたしは真逆でした。
とはいえ、抑えきれない熱量は、漏れるものです。
22歳を過ぎてからも、途切れ途切れですが、どこかで何かを書くことは続けてきました。
書き続けよう!と頑張って書いてきたのではなく、自然とあちこちで文字を連ね続けてきた感じです。
そんなことを思い返したら、自分の「生業」は「物書き」でいいんじゃないですか?と思うわけです。
それに、
最近特に身に染みるのですが、
書くことくらいしか、
本気でやりたいこと、
やれることがないんです。
約50年近く生きて、
時代が変わっても、
自分の環境が変わっても、
変わらない自分の本質は、
書くことなんです。
やろう!と頑張らずにやれること。
やらずにはいられないこと。
それが一番むいてることでしょうし、
魂が求めてる行為に違いありません。
そんなわけで、
あと25年くらいで死ぬまで、
物書きとして生きることにしました。
もともと生きづらいのですが、時代が変わって、ある意味さらに生きづらくなりました。
でも、時代が変わったのだからとにかく何でもありでしょう?と逆手にとることにしています。
物書きだと言うことで、物書きの自分が社会の中で成立する気がしています。
名乗る以上ちゃんと書こうという意識が働くからではありますが、その一方で、何かを書くことでこれからの時代を生き続けるんだという自分への確認の意味もあるのです。
ここまで御覧くださった皆様、
貴重なお時間ありがとうございました!
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