「ブルータリスト」に見た強さ。
大作「ブルータリスト」を鑑賞した。
舞台は第二次大戦後、建築家ラースロー・トートの半生を三時間半という長尺で丁寧に描く。
非常に映画的な映画で満足度が高い作品であった。閉塞感の強さが多少なりとも残る時代で、激動の潮流を生き抜いた主人公がどう新天地に適応していくのか。仕事人としての矜持を持ったまま、様々な成功や失敗の付近を彷徨う。その築かれていく歴史や物語を客席から眺める。一切干渉の出来ない場所で、人々の交錯を見届けるのだ。
以下、内容に触れながら所感を述べる。
冒頭、ラースローが登場するまでの一連の流れは映画好きなら嫌いな人間はいないだろう。劇伴と相まって観客をこれ以上ない程に煽ってくる。本作が期待に応えることが保証されたも同然の瞬間であった。
まだ物語にのめり込むには早い段階で登場人物の過剰な演技が連続する。時代設定だけに、それは決して突飛なものでなく、早々にこの作品の力強さを示してくれる。安易に感情が揺さぶられるのだ。
最初の仕事のシーン。お手並み拝見といった具合でラースローの手腕が発揮される。素人には一目で分かりにくい機能性の中に、確かに存在するそれらと美術的観点。三輪車の例えから仲が深まる起伏も自然で飲み込みやすく、皮肉混じりの店名の会話の後だと余計にこれが面白い。
次なる初の大仕事。名の知れた富豪の子息からの依頼。張り切ったラースローは腕に縒りを掛けて書斎の改装に取り組む。ここは恐らく作品中で一番初めの見どころであろう。建築家であるラースローの才がまざまざと映し出される。心を掴むには充分すぎる程の芸術性。出来栄えの美しさは言わずもがな。実用的かつ視覚的に富んだ様式美がこれでもかと画面いっぱいに広がる。
そこから一悶着があり、富豪ヴァン・ビューレンのお眼鏡に適ったラースローは屋敷へ招かれ
一大プロジェクトを任される。パーティでの二人の会話は実に映画の中枢を担うものであり、核心的な応酬だと思われた。それはヴァンの身の上話から始まる。
随分と家族関係に苦労したヴァンは母親への愛を語る。冷遇に不満を抱き、母と母方の祖父母の関係に憤り、祖父母の無心を軽蔑し嫌悪した。金を稼ぐようになっていた自身の力によって訣別を叶えたヴァンは誇りを持ってその話をラースローへ話し、賛同を求める。
話題はラースローの方へ切り替わる。ここでラースローの思想が露わになる。建築への向き合い方を問われ、自身の経験を基に考えを構築していく。この持論は最初に震えた部分だ。端的に言うと、美は攻撃を避ける可能性を秘めている。そんな飛躍したような話だ。戦時下において荒らされ焼け野原になった場所も多い故国で、自身が携わった建築はいくつか残っている、と。芸術に対して誰もが引き金に掛かる指を緩めるとは思わないが、その希望的観測は芸術家・表現者に必要不可欠なものであり、こちら側の人間に訴えるものとして強く機能した。共感だ。今日の世界情勢で数億の人間が共感疲労に憔悴している。新型コロナウイルスの蔓延や、紛争抗争を超えた文字通りの戦争が勃発し各国が張り詰めている状況で、夢を追い続ける芸術家・表現者は存在価値に苦悩することも少なくなかった筈だ。落ち着いてから作品を発表出来れば、そこに「この作品を見て、少しでも何かを考えるきっかけが生まれたらいい」などという常套句を並べるのが精一杯だ。実際それは大切なことだろう。しかし現実は、ひとたび大戦が起こってしまえばその芸術とやらは何の役にも立たないとされ、戦場に駆り出される。他の娯楽と一纏めにされて無用と判断されるのだ。(もちろん娯楽もとても大事なものなのは言うまでもない。時として戦時中でも精神衛生上、大いに役立つのは明白だ)そして建築という衣食住の一つを担う重要なものも、建てられれば良いというところにそれ以上芸術の遊び心は要らない、そう断ぜられるだろう。戦争は、勝つ為にそれ以外の不必要なものは悉く削減するだろうということだ。すると現在に命を削って芸術に全てを捧げ没頭する意味や意義があるのかと自身に問う。そんな人種が一定数、あるいはかなりの数いる筈。そこでこのラースローの台詞だ。美しいものは残るのだ、遺る可能性があるのだ。それは人を救う可能性であり、人を立ち止まらせる可能性であり、人を変える可能性である。それは生涯を費やす価値がある。そんな風に感じたのだ。彼はそれを立方体をその構造の説明以上に説明することが出来ますか?と話した。
ヴァン・ビューレン邸から少し離れた丘の上、丘陵に建てるは巨大なコミュニティ・センター。たたき台を出してから模型を作るまでが即座に行われ、ラースローは施設のプレゼンをする。ヴァンの信頼を得て、自信に満ちた才能溢れる模型の出来はその場に居る者の首を縦に振らせた。着工は速いものだった。
私生活の危うさや離別した家族との再会という希望を胸に抱きながら物語の前半は幕を閉じる。
ここまでで上映時間の早さに驚いた。半分に分けた分、通常の映画(約2時間)より短めなのは理解していたがあまりに早かった。インターミッションの導入も抜群で、物語の雰囲気を損なうことなくシームレスに移行する。トイレに立とうが「ブルータリスト」の世界から引き剥がせないような情熱という名の工夫を感じた。
続いて後半。インターミッションが明ける2、3分前から音楽が小さくなっていき、環境音や人の喧騒が大きくなって物語が再開する。
仕事において一歩も引くつもりのない性分のラースローは度々衝突を繰り返す。彼自身の才覚は疑いようがないが、順調には進まないものである。
妻エルジェーベトと姪ジョーフィアが渡米し、ラースローとの逢瀬を果たした中で、雲行きは怪しくなる。幸せな時間はそう長く続かない。会話の中で肌に感じる嘲笑や恩のあるヴァンからの好ましくないジョーク。さらにはジョーフィアの心的な病気の問題がヴァン家との間に影を落とす。
列車の事故という大きな不幸により一度は職を失うラースロー。作業の中断と保障のストレスによりいきりたったヴァンを嗜める方法を彼は持たなかった。強制的な失業にラースローも深く項垂れる。
年月が経ち、ジョーフィアは結婚するまでに至っていた。再び仕事を持ちかけるヴァン。夫と共にイスラエルへ移住すると宣言するジョーフィア。車椅子のエルジェーベトは唐突な二人の提案に憤慨する。ユダヤとして収容所を経験し、体も不自由な身でいるが故に人よりも孤独を恐れているのだった。
ラースローは建設の再開に向けてヴァンにイタリアのカッラーラの大理石を打診する為、旧友と会わせ話を取り持つ。ここが分水嶺だった。美しさに惚れ込みヴァンは大理石の資材調達を承諾。夜はそのまま飲みの場でハメを外した。ラースローは飲み、踊り、泥酔状態にあった。(この時ドラッグも摂取していたと思われる)酔ったヴァンはラースローを探し人気のいない場所へ。そこで見つけたラースローは地べたに座りこみ、体を折って吐いていた。ヴァンはラースローを犯した。ラースローの間抜けで見るに耐えない生き方に苦言を呈した。その個人の全てを知りもしないで、才能をドブに捨てているようなものだと糾弾した。酒が本質を表したのか、弱々しい抵抗しか出来ないラースローをヴァンは強く押さえつけたのだった。
以降ラースローは気の抜けたようになったり気性が荒くなったりと不安的な状態が続く。それも無理もない状況が降り掛かるのだ。急な設計の大幅な見直しや鉄パイプでの足場を使っての懸垂に興じる作業員など。ラースローは怒る。安全が第一と。怪我人や死亡者が出て作業が中断すればまた何年待たされるかが分からない。宥めるエルジェーベトにも車内で怒号を浴びせ口論へ発展させてしまう。そこで二人が感じたもの、ラースローが吐露するものは、ホロコーストをブーヘンヴァルトとダッハウで生き延び、国境を越えアメリカに渡り尚も緩やかに迫害を受け続けている苦しみだった。移民大国と言えど、いくらカトリックやプロテスタントを装えど、ユダヤ人であり富裕層でないラースローには耐え難い何かがあったのだ。それに終止符を打つかのようなレイプ。
就寝時、エルジェーベトに発作が起こる。ジョーフィアはすでに移住しており、薬の残りも僅かであったことにラースローは気づいていなかった。発作を止めるべくラースローはあろうことか妻へドラッグを注射する。そのまま落ち着きを取り戻したエルジェーベトとセックスをして眠りにつくが、トイレに起きたエルジェーベトが泡を吹いて倒れる。病院で生死を彷徨ったが何とか一命を取り留めたその姿を見て、ラースローは夫婦で故国へ戻ることを決意する。
数日後、単身でヴァン・ビューレン邸へ赴いたエルジェーベトは面と向かってヴァンを強姦魔と罵る。車椅子を用いず歩行器を掴みやってくるこの場面は秀逸だった。緊張感が凄まじく、彼女の強さが画面越しに伝わってきた。当然その場では白を切るヴァン。息子のハリーは激怒しエルジェーベトを突き飛ばす。娘のマギーは仲も良好だった為にエルジェーベトを案じ、帰りのタクシーまで使用人に送らせる。
ここから、ここからが非常に重要なシーンだった。ハリーを長回しで追いかけるカット。父親を罵倒された怒り、それはプライドでもある。しかしそれとは別にジョーフィアをレイプした自分と同じ血が流れている故に感じた恐怖があったのではないか。ありえるかもしれないという可能性に慄いたのだ。その葛藤や焦燥が彼の鼓動を速めた。
ハリーはエルジェーベトを追い返したと父親を呼ぶ。父親の名を叫ぶ。けれどもどこにもヴァンは居ない。家を出て外庭を見る。マギーも合流するがやはり夜の闇の中に父親は居ない。ハリーは何人もの人間を引き連れて焦るように父親を捜索する。足は建設途中のコミュニティセンターへ向いた。隈なく探し、排水設備を通り、やがて十字架の光差し込む礼拝堂へと…。
時が経ち、物語は晩年のラースローが建築の展覧会へと訪れるところが映し出される。そこでは成熟したジョーフィアがラースローの車椅子を押し、瓜二つの娘と共に歩いている。エルジェーベトは亡くなったが、ジョーフィアは数々の建設物、そして完成したコミュニティセンターのつくりの意図を説明し、素晴らしい建築家の叔父ラースロー・トートのことを誇らしげに話すのだった。
存外気持ちの良い終わり方だった。何より最後、レイプがなあなあにならずに済んで良かった。ヴァンは悪人と呼ぶには些か難しいだろう。あれは悪意を持ってどうこうという人間ではないからだ。教誨する者がいないとああいった末路になる。貴族階級の払拭しきれぬ差別意識というものが根底にあり、同じユダヤ系という弁護士マイケルの話もあるにはあったが、立場や環境の違いが悪かったとしか言いようがない。関わる人間とを見定めなければ、助言は暴言に、提案は命令に変わる。
またその差別に対する意識は被差別者であるラースローとて例外ではなかったようにも思う。これは致し方ないが身を置く環境が破滅に向かうものだと察知する力も必要で、少なくともクスリに溺れるようではいけなかった。
ラストのヴァンは懺悔として十字架の元へ導かれたのだと思う。銃声が鳴り響いて終わるのかと思いながら観ていたが、ただ静かに月光を届かせる天井の十字架(逆十字とも取れる)を映す撮り方は美しかった。
それと過激派シオニストが出てきてさらに一騒動、とかはありそうで無かった。もしかすると配慮してのことなのかもしれない。
IMAXなだけあって音楽が素晴らしかった。映画を観ている感覚が全身に注がれるような。スタッフロールまでが心地良い。
真偽は分からないが一部生成AIを用いているらしく、それは確かに筆者含め多数の評価を下げる一因たりえるかもしれない。もちろんCGと何が違うのかなどという水掛け論に発展するような不毛な争いをする気もないので、個人の好みではあるが。
感想と記録の混ざった醜い記事になってしまった。
総じて、好きな作品だ。とても。
アカデミー賞を受賞しても文句はない。震える、美しい映画だった。ここまで読んで未鑑賞の人はいないと思われるが、もしまだなら時間のある方は是非観てもらいたい。
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