「地獄のSE」は本物だった。
先程「地獄のSE」という作品を鑑賞してきた。
このホヤホヤの気持ちのままで所感を綴りたくなったので、記憶も曖昧、思いついたことを書き連ねるだけのかなり粗末な文章になることを最初に詫びておきたい。
そしてあくまで個人的で、偏見も含まれた私見だということを念頭に置いてもらえると助かる。
去年だったかSNSで絶賛する旨の感想を見てこの作品と出会った。予告を見て、さらなる興味を惹かれた。
今年、東京での公開の知らせを聞き、すぐに日程を空けるべくメモを取った。
作品を観るかどうかの判断材料として予告は一度だけという性分なので、それ以外の情報がなく、不透明なまま公開日が迫ってくる。
本日、朝になって公式サイトを見た。癖のあるものだ。あらすじが目に入ってしまった。そのまま流れに任せ目を通す。
かなり気持ちの悪い情報が飛び込んできたが、取り敢えずはフラットな気持ちのまま劇場へ向かうことにした。
老若男女。思いの外、様々な客層が混在していた。
そして時間になった。
鑑賞。期待と不安が往来する。
正直、大人になるにつれ映画を変に見定めるような目で観てしまう節がある。これはよくない。そう思いつつも、過激な内容のあらすじやそれに見合う変わった撮り方・演技に身構える。
昨今は多くの創作物で“奇を衒う”作品を見る。そんな時勢に小首を傾げる。観客を裏切れば、受け取り手の意表を突けば、それが面白いのか。それが作品の実力なのか。
冒頭でそれを吟味する。まだ乗り切れない。そう思って数分。世界観の明確な提示が為される。最初の時点でそれは文として視覚的に表されるのだが、それよりも分かりやすく監督の意図が視える。LGBTQだとか多様性だとか、それを自己中心的やダブルスタンダード的に過度に声を荒げる人やその風潮自体に今一度再考を求めるような趣き。
早めに総括しておくと、この映画は純文学的だと感じた。例えていうなら村上春樹、あるいは海外文学(ここで敢えて一括りに言ってしまうことを許してほしい)。丁度、本読みの知り合いに勧められた「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を想起した。
厭世的で、虚実が入り混じり、そこには主張と皮肉と啓蒙が絡繰人形を通して描かれる。ある意味では物語的な欺瞞だらけ。
希死念慮が付き纏う人間社会で普通を装う。恋愛相談は良くても、自死にまつわるような人生相談は忌避されるし嘲笑の対象になる。
そして性癖という三大欲求の一つの中の、動物的でない人間的な偏り。避けることの出来ない太陽光。
台詞の語調に説教臭さはなく、そもそもの設定が我々の常識と乖離している為に、等身大の説得力が必要ない。あくまでこの物語の中に見出せる・伝えられるものを享受するという仕組みのよう。
コミカルな筈の劇や台詞も、どこかシニカルである。
特に保健室の先生などは興味深い。人物としてよりは舞台装置としての傍観者のような。まともな人間のいないこの作品で、まともの皮を被った観客のような。彼女は恐らくニヒリストである。
少し前後するが早坂の設定であるあの愛好は、とてもじゃないが真顔で見ることは出来なかった。どうしてもその非倫理的な行い、想像してしまう臭いから眉を顰めてしまう。きつい描写だ。“否定”の憚られるこの時代においても、あれは許容出来ない。
天野に赤い血のメタファーを集中させる心理的欲望の表現は健気な気持ち悪さを演出する。
序盤でサブリミナル的に色々なメタファーや後の展開の情景が映し出される。
教室で生徒の机の上に置かれる手向けとしての花瓶。その異常な数。加えて閑散とした体育館での集会。
崩壊していることに他ならない。それはクラスであり学校であり社会である。飽和している一つの願望。向きが同じという地獄。
希死念慮といえば最初からそれを仄めかせている吉行が逆に遺ってしまう点や、保健室の先生と担任(旧)の先生のやり取りや行く末も面白くはあるのだが、個人的には吉行の兄の描写が秀逸で好きだった。
はじめから死の淵から妹を救う甲斐性を見せ、自転車の上で胎内の話をする(保健室という傷を治したりする、生徒を救う場所。そこに入り浸る厭世的な吉行)。そしてゲートボールという主に高齢な人間の取り組む遊びに取り組む姿を見せ、最後は海辺で怠惰な体勢を維持したまま入水していく。
彼に何を思うのか。彼をどう見るのか。それは各々によって違うと思うが、吉行や担任とさして変わらないもの、ひいては教室で失われていった数々の命と同じものがあったのかもしれないと思う。
それを中年の男が残していった“狂い”とするならなんと罪の重いことか。でもそれは必然であったり、そもそもそんなもの無かったり。はたまたずっと昔から社会に充満しているものなのかも。
ジャンヌ・ダルクの小噺をしている会話の着地も好きだ。詩的で中学生然とした二つの包括。あういう台詞劇はどんな作品で見ても良い。センスや感性が光る。
終盤の早坂の展開に一瞬置いてけぼりになり、既視感のある展開に持ち込むのかと思ったがそれは杞憂だった。あういう展開を正面から物語的に解決する様が、唯一と言っていい程分かりやすいエンタメのカタルシスを味わえた。
シュルレアリスム的な画づくり。音楽からマイクで撮った声への音の切り替わり・それに伴う環境音という敢えての差異。差し込まれるアニメーション。演出の妙によっての没入。
表立って人に勧める(特に女性)のはやはり難しい作品だとは思う。それでも、インディペンデント系作品の魅力を存分に堪能出来る秀作だと断言出来る。これがこの作品の凄さ。
淡い映像の中に映し出される学生服と剃刀のような狂気。「青い春」が好きな人は好きだと思われる。
忖度なしで一つだけ言わせてもらうと、字幕は無くてもよかった。ああいった演技なので特に台詞が聞き取りづらいとは思わなかったし、かえって注意力が散漫になる場面があったように思う。
わたしのような天気さん。奇抜な名前だが、役どころと相まって魅力的で素敵だった。吉行が嫌いな奴はいるまい。色々と手広くやっているようで、クランクアップしたばかりの映画というのが非常に気になるので情報を待とうと思う。
幡乃美帆さんはどこか違う作品でお見かけした気がするが思い出せない。何だったろうか。
監督・キャストの皆さんがお見送りのようなものをしていたが混雑していた為に早々に帰ってしまったことが若干の心残り。
しかし更なる創作の活力を頂いた。自分より若い方々に負けてはいられない。作品づくりに励むのみだ。
以上、やはりまとまりのない文章になってしまった。申し訳ない。
けれど、これでいいのかもしれない。だって今作は百鬼夜行的映像作品なのだから。
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