鹿田、少し頭を使う。
いわゆる、ネタ集めという奴だ。
集めと言ってもその現場は我が脳内なのだが。『メモの魔術』を読みながらも最近は落書き帳になってしまっている我がモレスキン。それもそれで面白いのだが、例えばこんな風に、イラスト応募企画に参加したりしてね。
けけっ、少し自慢もしつつ。インドアの宿命だね、本を読むか絵を描くか。妄想のはけ口だ。
ま、それもそれで読み返してみると面白いのだが、少し未来に向けた使い方をしてみようと無い頭を働かせた。それでnoteのネタなんかを書いてみたりしたのである。
ほとんどは昔の記憶を辿ったもの、それらをnoteに刻んでネット上に記録しておくのもいいかなと思ってね。年々記憶は確実に薄れるからね。今ちらっとそのメモを見直すと、例えば学校のプールの塩素の匂いだったり、もっと幼少期、近所の医院の裏口で近所の少し年上の友達の集まりに参加させてもらった記憶とか(よく怒られなかったなぁ)そんなのを思い出しては書いていた。いずれnoteのネタとして書くつもりだから、詳細はまた、その時。
あ、鹿田です、よろしくね。
いや、僕としては思い付きのままだらだらと書いていた方が楽しいのだが、何事にも発展というものは必要で、そんな体たらくで飽きられては元もこうもないという思いがある。僕が楽しくて、読者も楽しくなくてはいけない。そのwinwinの関係性こそが楽しく続けるための秘訣だからね。だからだらだらと書きつつも、少しは濃度を上げたいと思ったのだ。ま、また鹿田の思い付きだからね、実際どうなるかはわからないが。方向性としてはなにも変わらないからね。すべてのベクトルは夏へと向かう。こんなにわかりやすいことってない。シンプルイズベストだ。
心の疼きにすべてを任せるのさ。僕はnoteを始めたことによって夏にもう1つの楽しみができてしまった。それはそのままなのだが夏のnoteをあさること。あさりつくすこと。今日Twitterでも呟いたけれど、僕は夏の夏という表現を、貪欲に、全て貪りつくしたいのだ。僕がどれだけ夏の事を考えて行動したって、結局は「鹿田の夏」しか手に入らない。映画も夏映画を見つけ出しては鑑賞し、本もいつも暇があれば「夏」というキーワードでアマゾンで検索している。でもそれだけじゃ全く足りないのだ。
ぼくとは全く違う、別の人の夏。それは、夏が好きでも嫌いでも構わない。どういう思いや経験によって、そういう夏の受け入れ方になったのか。また実際どのように夏と向き合い、夏と過ごしているのか。
全部知りたい、全部だ。
だから僕は今の時期、noteやツイッターで夏というキーワードやハッシュタグ検索が捗って仕方ない。溢れるわ溢れるわ。それから #夏の詩 。僕は一時期今のメインアカウント以外にも、夏の詩コレクターというサブ垢を持っていた。どういう訳かログインできなくなってしまい、現在放置状態なのだが。夏の詩を見つけてはリツイートをしまくり、タイムラインを夏の詩や夏の絵、写真で埋め尽くしていた。今年も素敵な夏の写真や詩が見れると思うと嬉しくて仕方ない。
ま、そんなこんなでこれから本格的なマイシーズンに突入する。僕は今noteを書くことの絶頂にいるが、その絶頂は日に日に上回っていくことだろう。そしてとある季節にはがた落ちする訳だが、そんなことは今考えたくもない。
ほら、ちゃんと今日も蛙様は優しく鳴いてくれるんだよ。ここ、ここって。ここにいるよってさ。そしてここはもう夏だよってことかもしれない。うれしいな、ありがとう蛙様。人さえ集るなら蛙教を作ってもいいのだけれど、きっと万年僕しかいないよ。
じゃ、また。