あさのねごと
朝だ。朝である。こんな早朝に今までnoteを書いたことがなかったので、果たして、どんな文章を作り上げるのか、自身に対しての実験的アプローチである。しかし手まで寝坊している。思うように動かないぞ。それは手が、脳みそが、眠っているという事になるのだろうか?最近やっと「教団X」を読み終わった身としては、色々と考えてしまう。
鹿田です、よろしくね!
句点がビックリマークに成り代わっているあたり、早朝の鹿田の脳みその不安定さが垣間見える。ふむふむと感心したところでコーヒーを飲もうということになった。ただでさえ普段からだらだら気まま文章の鹿田だ。それが朝の半寝ぼけでの創作となったら流石に読者に対して耐えられない。ちょっとつくってくるね。
繊細な季節は、僕が部屋に籠ったまま過ぎ去ろうとしている。有名な思考実験がある。すべてがモノクロにしか映らない部屋の中で、生まれてからずっと育った人がいたとする。教養として色の知識はあるが実際見たことはない。では果たして、色のある外の世界に出た場合、その人は色を認識することができるだろうか?
鹿田自身も良く分かっていないが所謂、僕の赤はあなたにとっての白かもしれないね、といった認識できないことに対しての思考実験だ。まあ、全然関係ない話なのだが。
ならなぜ話をした、と問われれば話したかったから!だけである。しかも今考えたら要点がズレている気がする。ま、いいや、すごいだろ。お、T-falのお湯が沸騰したぞ!しばしティーブレイク。あちっ!まだ飲めないわ。(怒涛の言葉責めで事の本質を誤魔化す、鹿田の胡麻菓子SKILLの23を使いました。あ、みんなどうせ、気づかなかったし態々いう必要なかったかしら)
まあ、まどろっこしくしてしまったが、果たしてその繊細な季節を、部屋に閉じこもって過ごした鹿田は、今まで通りに敏感に感じ取れるのだろうか、という事に、一抹の不安を抱いているのだ。いやもちろん、日の伸び具合や気温、鳴く鳥の違い光の違い程度はわかるだろう。しかし今まで一度もその合間がすっぽりと、抜け落ちたことなんてなかったのだ。何時でも僕は、それはそれは贅沢なほど自然を身にまとって生きてきた。暇があれば木々に囲まれていたかったし虫を探したかった。
たった2週間、されど2週間。
その2週間の中でもしかしたら、決定的に欠け落ちたものがあるかもしれない。しかもそれは、本人すら気づかないままに。すぽっと抜け落ちて、あとは部屋の床にべちゃっと張り付いている。匂いもない色もない、名前すらない忘れ去られたそれが。
来年もう一度この季節を巡るとき果たして、あの繊細な感性はもどるのだろうか?なんて杞憂する。杞憂じゃないかもしれないし。
もともと不利なのだ。僕には年中鼻炎がある。それでも不思議と季節の変わり目の香りには敏感で、雨降る前の匂い、春と夏の変わり目、夏と秋の変わり目を、香りで知ることができる。他はほとんど匂わないのに、それだけ。そしてその感性が誇らしかったりもする。
お、コーヒーがちょうどいい具合になったよ。少しカーテンを開ける。あいにく曇りの今朝だ。区切られた窓にしては豊富なほどの緑が僕を迎える。チューリップもしっかりさいてるわ。白い鈴なりの花(若しくは葉?)を宿す低木はなんの木だろう。草刈り機の音、それによって及ぶ草の匂いは、遠い季節をそっと運んでは消えゆく。風はないようだ。木という木が微動だにせず突っ立っている。それは囲まれているとなると時折、恐怖を感じることさえある。風さえ吹いてりゃ、最高の景色なんだけどなっ!山桜の一種がまだ桃色の花保っているよ、それともまた別の種類の木のなんだろうか?
あ、ごめん。わかった。
季節に鈍感になるのが怖いなんて、当てつけだったわ。
ただ外に出たいだけだわ。
道理で鹿田の脳味噌にしては、難解な思考を凝らすなと思った。道理でね。
飽きた!
早く外に出たい!
終わり!