或いは駄文、或いはバイブル
最近もまたぼちぼちと本を読んでいる僕である。屍人荘の3作目をハードカバーで買ったところで食傷気味になり、それでもミステリは面白くて名作と名高い『すべてがFになる』に食指を伸ばす。そこからS&Mシリーズを読み出すことになるのだが、兎に角このシリーズ一作目に出てくる真賀田四季というミステリアスな人物に一目惚れし、その再会を果たすことこそをモチベーションに読破していっている。監査も終わったことだし、より没頭するか、と思ったところで封印再度を手に取ったが、あいも変わらず飽き性代表の僕は、本屋にふらりと立ち寄って、もう片手にハンニバルを取った。以前職場の皆から名作である、ホラーを抜きに素敵な作品だから一度見るようにと言われていたのだが、ホラー恐怖症の僕はアマプラを開く手前まで行き挫折することを繰り返していた。しかし天啓、本ならば読めるかもしれない。そう思った時の勢いで瞬時に上下巻を手に取りレジに向かった。こうして積読とは増えていき、振り返って見た時に途方も無いほど積み上がったそれは、絶景である。僕に目と脳が複数あるなら、同時に読み勧めてやりたいものだが、すまぬ、本達よ。そして序でに致命的な飽き性なのだ、僕は。
しかし飽きるも一概に悪くはない。一方的にマイナスイメージをつけられてしまって悲しんでいるよあきるくんも。
彼のマルコム・フォーズが言っている
と。要するに僕は、全巻読破する前に、全巻読破することを成し遂げてしまっているのである。それは四次元の領域で僕には全く理解できないが、僕が理解することなくオートマチックにそれは処理されるので問題ない。ただただ未来人に尊敬の念を送るのみである。未来人は未来人なのできっとどうにかしてそれを受け取ってくれる。序でに未来に鹿田のことを宣伝してくれるかもしれない。え、宣伝したところで果たして需要はあるのかって?こんな非生産的な記事を排出するだけの僕に?いやいやきっと全てがオート化された世界では暇だけが世界を網羅しているはず。そしていつか人類は、自身の非生産さ加減に嫌気がするときが来るかもしれない。そんな時、鹿田のこの『夏バカ鹿田、夏を語る。』は大いに其の人々を勇気づけることだろう。こんな奴でもあの時代にやっていけたんだ、って。そしてこのnoteは2○世紀の世界的バイブルとなるのであった!
その鹿田です、よろしくね。
ま、現時点にいる僕は其の恩恵の一つも受けることはできないし、知名度だってないのだから気負わずにやっていこうと思うが、若干指先が震えてキーがうまく打てないのは僕の理性と自惚れとの差異であるので悪しからず。それにしても先程取得したばかりの特殊スキル【マルコム・フォーブズ】は困ったものである。これではこの先新たなミステリを手にとっても、瞬時に犯人がわかってしまう。それでは本末転倒なのである。もしも僕が学術書や知的文献を好んだなら重宝しただろうが、全くもって無用の長物である。ならば思い切り捨てようではないか、さらばマルコム・フォーブズ。よって僕はもとに戻り、何かを成し遂げなくても、僕はそれに飽きてしまう、に回帰したのである。めでたしめでたし。
さて、この一段落の無意味さよ、さぞ未来人は両の口角より垂涎し舐めるように耽読したことだろう。しかし未来人よ、僕はその気持に共感する。一冊の本を舐めるように読む、或いは読み返すこともまた素敵な愉楽であることを。それがもし鹿田の文章であっても。
無意味は無意味である。それは無駄であり、無駄は無駄である。しかし長い目で見れば無駄は無駄でなくなる。しかし、もっと長い目でみたなら、やはり無駄は無駄だし、全ては無駄である。
無駄はいつしか空虚の白き平原と化し、その空白にぽっかり浮かぶのが、僕であれば夏だった。世界的な無意味も、僕個人であれば意味づけすることができる。ただそれだけの、建前や条件だけであるが、病みつきになるほど面白い。逆説的であるが、その面白いと感じた時に初めて感じる五感には身震いする。例えるなら真夏のあの可視光線、だれもがそれに手を翳すように。それが何かは他人にはわからない。だから自分のものさしでいい、気楽なもんだし、孤独だし、しかし時にその孤独を凌駕するほどだし。
少し、無意味でなかったので一定の未来人は怒ったか、馬鹿にしたか。僕は『夏バカ鹿田、夏を語る』の教祖であり、その自負があるが、そんなもの容易く抜かれてしまうものなのかもしれない。勿論僕は教祖になる前に修行もした、その師は月だったり、蛙様だったりいろいろだ。けれど誰もそこに下剋上は下せない。なぜなら彼らは意味の範疇外だからである。「しかしそれはそもそも人間が意味を加えたからだ!」、「本能でしか生きられないものに意味は無い!」、というご尤もな意見もあるがそれは想定内だ。何故なら、逆に我々が、意味のないものに意味をつけた、という見方もできるからである。意味や名前がなくては困るのは、我々人間だけであるのだから。
まあ文章という媒体はなんだか考えているうちに、綴っていくうちに己の思考とその癖だけが独占して、そりゃあ心地よく陶酔できてしまうものだから、無意味だとか言っておきながらも、僕はその中にひっそり今日も(誰かが読んでくれるか)、(興味を持ってくれるか)と虎視眈々と構えているわけで。そこを後頭部にぱしん!とハリセンを落としてくれる同胞”月”がいないと、あまりにも頼りない。そもそも僕はnoteを始めた初期より文章エゴイストを宣言しているから月がハリセンを落としたところで不可抗力なところがあるのだけれど、けれどあとになり冷めてから見ては、今度は僕が地平線間近の地球の塵越しの月のようにそれはそれは顔どころか体中が真っ赤になってしまって、けれども作品は可愛いから消さないし、もう一段階冷静になるとやはり、なかなかましではないかと思ってしまうくらいだから、もう果たして自分の俯瞰は一体どれだ?などクイズに三択クイズ出だされても、正解できるか自身が全くないといったところで、まあ、いやはやなんとも。結局統制を取れない僕はまた無であり、統制をとれたところで全くもって僕の意識の中心とは何かと問われたならば答えられないアイディンティティブレブレ人間ということになる。と、忘れた頃に夏をもぎ取り、胸の扉を開けては思い切り押し込む、ぎゅっ!
ふう、夏バカ鹿田のできあがり。夏バカでいる限り、僕は全てが楽しいのでなんの問題もない。好き勝手に文章を書いて、楽しい文章かけたなーとか自画自賛したって恥ずかしくない毛の生えた心臓の上位互換、太陽みたいな心臓を持つ僕だ。
実は僕が面白いと言い切った、すべてがFになる。Fが何だったのかイマイチピンときてないんだよね。いや、どれが、どうなって、どうなったってのはわかるんだけれど、ストーリーや、ミステリの構造は理解してるんだけれど、F自体がなんだったのかはよくわかっていない。
てなことで、小説のすべてがFになるは一先ずおいておき、もしこの記事のタイトルにするならば、一番的確なFの正体、さてそれは何になるでしょうか?
勿論僕はすでに的確な単語を心に描いている。しかし勿論、僕は僕なので、人は人で、僕の心を推理するのは不可能かなあ?僕のお得意のものなのだけれど。
もしわかってしまったなら、個人では収まり切らない素敵な世界の秘密が、本当はどこかにあるのでしょう。
ではまた。
※マルコム・フォーズさん、都合の良い解釈をごめんなさい