夜明けの啓示
また少し、長らくnoteを空かしてしまったが、冬に項垂れ気力を失っていたわけではない。職場の仲間と隣県群馬に小旅行へ行っていた。
移動手段は車(※上司の運転する)、あとはほぼほぼ上司の実家(お酒や料理をごちそうになった)とホテルとの行き来、近所の市営動物園やショッピングセンターによってきた程度だが、上司のかわいい1歳のお孫さんも来ていてね、楽しく過ごすことのできた鹿田だ。
来年こそは夏、桐生八木節を踊れるといいなと余韻を残し、昨日無事帰宅した。
鹿田です、よろしくね!
ま、誇張なくほんとにぐうたらとごろごろ過ごした旅行だったから、それ以上語るべきものはない。北関東から東北へと戻ったことで季節の変化を沁沁と肌に感じ、そして本日出社、あっという間に現実に引き戻され、現在に至る。
ビールを持ってくる。
カプス、乾杯!
なので今日も心の思うまま気持ちよくだらだらと筆もといキーを走らせ、空白を埋めてゆく。それはnoteのページか、それとも心か。鹿田のみが知る。
昼間の空き時間にいつものように本屋に足を運ぶと、本棚に一際目立った表紙のハードカバーが表向きで飾ってあり目に留まる。
立ち止まり、手を伸ばし確かめると
「夜が明ける 著:西加奈子」
であった。読み始めると興味をそそるプロローグが語られ、すぐ手に取り会計に走った。
その本が今左手の床に乱雑に放置されているので、まあ、僕は今それが読みたいのだろう。この記事を書きあげた暁にはビールを飲みながら読書にふけるに違いない。また最近麻雀もやりたくなって(点数計算などわからない万年初心者だが)以前やっていたアプリをダウンロードした。
こうして、やりたいことを探してほじくり返しては周りに積み重ねていく。まるで巣作りするビーバーや、蟻、海底に穴を掘って住む魚のように。そうして、冬を視界から遮っていく。技だ。長年の夏バカ冬忌みにより自然と培った技なのである。
旅行という今年一大のイベントが終わってしまった今、危うき精神の弛緩が常に付きまとうようになってしまった。僕が嫌いなことは重々ここで発している「夏が終わる」「冬」そして「祭りのあと」である。だから終わる前に次の楽しみをちゃんと準備しておかなくちゃいけない。さあ次はなんだ!と、思ってからでは遅いのだ。そうなっていくらあたりを見回して探ってみても、白き憂鬱に取り囲まれジ・エンドである。
終わる前に何かをはじめなくちゃいけない。
そうして積ん読の山を築き、身近な好奇心の反応するもの全てに手垢をつけて生きていく。
そんな鹿田もすこし襟を正さなくては、なんて思える小説だよ、きっと。
さて続きを読もうか。集中し、けれど楽しく読むのさ。季節の動きなんて忘れてしまうほどとびっきり楽しく。この本はきっと完読する予感があるよ。
僕の、中々辿り着かない遠いとおい夜明けも、啓示してくれる気がするよ。
夜中両手でしがみつき、冷や汗に湿ったあの幾千の本たちの、その向こうに。いつも対峙している汎ゆる意味の夜の意味を。叩いて歩いた夜から朝に続く架け橋の先を。朝から夜へ朝から夜へと。
でっかちの頭を不器用に揺らしながら、ね。