鹿田、祭りに燥ぐ!
鹿田は祭りがアホほど好きなのである。いつまで続くのか調べていないがnoteのトップページにクリエイターフェスという文字が現れるたび、鹿田は浮かれてしまうのである。今日も今日とてなんのネタの持ち合わせもないのに、それでも鹿田は今日も祭りに参加したい!したいぞ!
てなわけで、今日もよろしく。
そういえば昨日の記事でクイズのようなものを出したが、分かった方はいらっしゃっただろうか?あ、当てたところでなんの報酬もない鹿田の一人遊びであるが、そこに答えはキチンと準備している。しかしだれもそれを気に留めてくれないのも悲しいので、勝手にヒントをだせば、タイトルの”或いは~”は、タイトルに意味が2つあるよ、というところからダブルミーニングを示している。それは文中の一節のみに、隠れているのだが。まあ、フェスを楽しむ序でに考えていただけたなら嬉しい。
さてさて机の棚よりいつもの新明解類語辞典を引き出す。また今日もこれをぺらぺらめくり、適切な言葉を探しながら楽しんで書かせていただく次第だ。ま、鹿田はお祭り気分の為、あっという間に酔うであろう。その場合成すであろう乱筆ご無礼と先に謝らせていただく。謝ることで清々と楽しく文筆に一意専心できる。そしてこの祭りもまた後なく、余韻をただ只管引きずれるよう期待したい。鹿田は”祭りのあと”という言葉が大嫌いである。常夏という言葉が存在するのなら、同時点に常祭りという言葉も存在せよ!と、少し怒りを含んで鹿田は思う。
なぜ常祭りは存在しないのだろう。なぜ”祭りのあと”という慣用句はあるのに、”祭りのまえ”という慣用句はないのだろう。腑に落ちない。スイカ神という正しき夏の権化が存在するのだから、それを奉ればもっと夏祭りは盛大になると思うのだが、まあ、僕の内にしか存在しないのだから致し方ない。それにスイカ神は、自らを神と堂々と名乗れど人を救うことになど一切興味が無い。今日も今日とてスイカ神は天雲に寝そべり鼻くそをほじっては興味のない半眼で外界を見下している。お前はせめて僕は救え、スイカの神よ。
とまあ、こういって屁理屈を並べる祭りも祭りでありではないかと思う都合のいい鹿田なのである。しかし屁理屈祭りの場合、では祀られるのは屁理屈神か…と考えてみると、いくらネジの100本外れた鹿田でも、多少腑に落ちないところはある。だがそれも、より、よく考えてみれば日本には八百万の神がいるというのだから、その中に屁理屈の神もひと柱(ゆる言語学様々)くらいいたっておかしくはない筈である。現に八百万の神とは、森羅万象に神が宿るとするものなのだから、寧ろ、いて当然なのである。
と、するとである。精々一年365日。夏に由来するあらゆるものをかき集めれば一日に一度のペースでもその八百万の中の夏に由来する神を崇め祀ることができるのではなかろうか。今日がスイカ祭りなら明日はきゅうり祭りで明後日はビール祭りである。そうか、ビール祭りはビールを祭り、ビールに感謝する時間だったのだなふむふむ。などとしばし真面目に思うがもともとが夏を感じてはしゃぐための祭りを己の都合で乱立している鹿田に、もはや何かを敬う気持ちなどスッポ抜けているのである。
ま、そうやって名目にとりあえず祀られて人々が酔っ払っていたならば、名前だけでも主役になれた万物の中のひとつは、喜んで自身も燥いでしまうんではないかしら。ならば結果オーライである。神も人も何もかも、分類など肩から外して放り投げ、楽しく杯を交わそうでないか。え、全知全能の神が許してくれないって?そうか、神にも色々あるんだね、とか話したり。
ところで、全知全能の神って、いつ生まれていつまでそこにいるのか聞いてきてくんないかな梅干しの神様。僕そのこと考えると夜なきたくなっちゃうんだ。あ、でも悲しい話だったら黙っておいてね、君には悪いけど、僕そんなのきけっこないよ!とか、話ししながらね。
僕の中では宇宙の一番外には永遠の四季が巡っているってことで解決しているから、それを脅かすような答えなら一切教えないでいい。まあいいそんなこと、今は宴だ、とことん飲もう。とか。
で、最終的にへべれけになって、なんでも良くなって、踊って、歌って、笑って。ああ、最高って。言えるのがお祭り。
だから祭りが好きで好きでしかたない。
余韻引っ張って、また、後日。
ではまた。